-天声人語-

来日した米国のケリー国務長官は、名前のイニシャルが「JFK」で、あのケネディ元大統領と同じである。

ジョン・フォーブス・ケリー氏という。ケネディに憧れて政治家を志し、高校時代にはその選挙運動を手伝ったほどだ▼ほかにも2人は共通点が多い。たとえばケネディは太平洋戦争で、ケリー氏はベトナム戦争で、ともに海軍の小艦艇長をつとめ死地を生き延びている。そんな人だから、北朝鮮の現状を、半世紀前の「危機」に重ね合わせての歴訪だったに違いない▼1962年、キューバ危機が起きた。ケネディ政権下、米ソが核戦争のボタンに指をかけた一触即発の事態だった。時代も事情もむろん違うが、核とミサイルをめぐる狂気は今、地球を半周して極東の若い独裁者に取り付いている▼死命を握る米国を、振り向かせたいゆえだろう。昨日の故・金日成主席の生誕記念日にも「各武器の拡大」を強調した。世襲3代目は民衆を飢えさせて、なけなしの体力で尖る▼キューバ危機は米ソの「理性」で回避された。ケネディの弟、ロバート司法長官(当時)は、最大の教訓を「他国の靴を履いてみる、つまり相手国の立場になってみること」だと述べている。だが北の「歪んだ靴」は誰にも履けそうにはい▼ケリー氏と同じく訪日したアウンサンスーチー氏のミャンマーは、悪名高い軍事独裁から劇的に変貌した。

北朝鮮に、内からの勇気を束ねる勢力はいないものか。今が金王朝の「終わりの始まり」にも思われるが。


2013年(平成25年)4月16日 火曜日 朝日新聞 第一面天声人語より


「滅亡する」「崩壊する」「もしくはその片鱗がみえはじめた」


一体私たちはこのようなマスメディアの言動を何回聞いたことでしょうか。

このような願望的ことばの大安売りにその効力は擦り切れて衰え、まったくの意味をなさなくなってしまいました(笑)


ここまで北朝鮮バッシングを続けておいて、結果が外れるたびにさらなる醜い憎悪で糊塗した記事で部数を荒稼ぎする新聞やテレビ・週刊誌マスメディア各社のありさまには失笑の域を越え、今回もその感情にまみれた「分析記事」は大外れするでしょうね。 (まあいつものことですが・笑)


しかしこの朝日新聞、ひと昔前までは68年前あの狂気の戦争を讃美し、戦後においては韓国を貶め北朝鮮を持ち上げてた事実も照らし合わせて、まったくの主体性のない鞍替えはげしい金儲け新聞社です(呆)


現に北朝鮮の3代世襲を批難しておいて、その異常性では遥かに上回る睦仁(むつひと)・嘉仁(よしひと)・裕仁(ひろひと)らの大日本帝国三代世襲王朝による対外膨張政策を強行し、散々に小中華を振りまいた挙句に滅亡して、現在では大アメリカ帝国を君主に頂く封国となってしまいました。日本はアジア・太平洋戦争時代まで「祭政一致」という言葉があり、この立場を理論化しようとする「皇国政治学」という立場が取られました。

この考え方は日本の国家権力の正当性を天照大神(あまてらすおおかみ)の神勅に求め、天皇の存在を「神聖ニシテ侵スベカラズ」(明治憲法第三条)としました。 かの有名な社会学者・政治学者のマッキィバー教授(Macl-ver.R.M)は、「君主制がなお存続しているところではどこでも古代の魔術信仰の一部を保持しているが、最も顕著なのは日本だ(『政府論』マッキィバー著・秋永肇訳 上巻十六頁)


ここで一つの記事を参照すると、bubkaさんの記事の朝鮮報道 にて、


「日本のマスメディアの朝鮮報道の問題点を一言で言うと『何でもあり』だということになろうか。その『何でもあり』現象を生み出すのは、日本では言論が商売だからである。記事は商品であって、したがって市場原理の法則がそのまま作用する。そこでは売れる記事が『いい記事』であり、『よく売れる記事』が『質の良い記事』となる。

朝鮮問題はマスメディアにとってとても売りやすい。検証しようにも国交が無く、非友好的な関係にあるために、メディアが極めて接近しにくく、歪曲、でっちあげ、ウソ、謀略記事などをいくら書いても検証が難しい。そのためいきおい『何でもあり』の状態が『許される』風潮が造られ、それに安住することになる。間違った報道であっても是正されることはまず無い」 


『ここが変だよ在特会(仮)』「朝鮮報道」よりhttp://ameblo.jp/korea-one/entry-10692745773.html


記事でbubkaさんがおっしゃられていたように世界最大の核保有国であるアメリカの核やインド、イスラエル、パキスタンの核保有には一切触れないくせに朝鮮が核実験をしたら大騒ぎ。アメリカも日本も韓国も打ち上げている人工衛星を朝鮮が打ち上げたら大騒ぎ。」「今までの様々な朝鮮に関する報道が全て真実なら、朝鮮と言う国は本当にとんでもない国である。いや、とんでもない国どころか21世紀を迎える前に崩壊していたはずです。しかし、未だに朝鮮は崩壊していない。

崩壊どころか『人民が飢えている』はずの国の人間がワールドカップに出場している。

食うものも食えずに飢えた人達がサッカーなんてやるはずありません。

何が言いたいのかと言うと日本のマスコミの朝鮮報道はほとんど疑って見た方が良いと言うことです


「連日連夜、正確ではない情報に接することにより一般の人達にまで「朝鮮は危ない国」と言う意識が芽生え、そこから朝鮮や在日コリアン、朝鮮総連や朝鮮学校に対する差別意識や偏見が生まれているんじゃないか。

だとしたらマスコミの責任は非常に重いと思います。


そして今日の天声人語での垣間見える「大国主導の世界秩序構築」を盲信して奴隷根性の事大主義をつらぬく現日本政府、そしてジャーナリズムもへったくれもなく貧相な「市場原理」しか持ち合わせない拝金主義的な御用マスメディア含め、かつてのマックス・ウェーバーがたてた御用論理のとおり「東北アジア人は金銭欲で商業をしており、そこに仮にあるとする『資本主義』も、それは『拝金主義』にすぎず、倫理的性格はない。」(『儒教とは何か』加地伸行著 中公新書 四一頁)


まさにこのとおりではありませんか!


いや、むしろユーロセントリストたちを満足させる自虐行為を、日本自身が積極的におこないアジアの名を穢しているとしか言えないでしょう。


ならば「真実」とは一体何でしょうか。


これは非常に難しい問題でありますが、必ず避けては通れない重要な命題であります。


ひとことで申して、真実とは各人さまざまな「『経験』の違い」(価値観の相違による「見える事実」の「相対性」)と定義しましょう。つまり、異なる他者同士の生きた「環境」や「人生選択」の違いからそれら各々の「主観」は枝葉のように別れ、それが巨大な網の目クモの巣のようにある種の「モナド」を形成していることです。

その根幹を主導しているのは、まさしく形而上学的な「神」の御意向であり人智では到底はかりきれないほどの第一動者として存在しております。


ちょっと説明が不足なので補足していきますと、ある人の一生はその個人の「経験」(人生体験)をして、その中で「見て・学び・行なってきた行為」がやがてその個人の可塑性(プログラム)となって、物事の判断する上での「土台」となります。 この思考の善し悪しはその個人がどれだけの幅広い人生経験を通じるかによって決まってきますし、例を出すと在日・部落差別問題や障害者・女性差別問題などは、マジョリティ側は「マイノリティ側の『経験』(人生体験)」をしてないのでその気持ちを理解することが出来ず、障害者や女性の方々の例をとっても同じことです。それを如何になくすことは、マジョリティ側の「感情移入」というものが必要で関連する文献や直接のフィールドワークを通してマイノリティ側との「接触」を通してでしか感じ取れません。これは民族間や国家間との問題にも応用できます。


話はもどって、遠大な形而上学性にもとづく始動因からは遠く離れますが、いわゆる「真実の下部構造」においては、それに関わる少数の「関係者」しか知り得ないということです。 マスメディアやネット上に散在する「加工された情報」は、真なる「一次資料」と比べ著しくその信頼性は剥奪されそれが最終消費者に行き着くまでに多くの恣意的な操作で歪曲されていきます。


図で表すとこうなります。



[上部構造]        最終的に「出来上がった情報」(一般消費者たちへ)

                <新聞・マスコミ・週刊誌・ネット情報など>

                            

                            ・

                            

                           ↓↓

                  「屈折した鏡」(「一次資料」の歪曲化)

                            

                            

                            

                           ↓↓

[下部構造]           n次情報(一次資料、最も「原初的」な「生の情報」) 




いま、「屈折した鏡という表現をしましたが、これは歴史学の大家である英国のE・H・カー教授が好んで使われた表現で、一つの「歴史学用語」として使われております。つまり、「情報の遡及」においては歴史学も同じでむしろ歴史学が学問たる地位を得るために歩んだ苦難の道の所業とも言えますでしょう。

「史実」(事実)において、「ほんとう」は既に失われそれはこのモナド的世界を構築し営む「神」のみぞ知りえる形而上学性を秘めております。その究極の第一原因(そこで起こったはじめての「事実」)は、<最終史実(事実)→・・・・n(「『ほんとう』の事実」)>はもう消え去っております。


「最終史実」とは、今現在歴史書に載ってある「史実(歴史的事実)」でこれは学界の新事実や新理論の発見が重ねられるたびに常に塗り替えられます。つまり歴史的事実(史実)とは絶対ではないのです。

そして「n」といわれるひとつの数学的表記を用いた記号は、無限にさかのぼった時点にあるひとつの「ほんとうの事実」と申しましょう。これは先に述べましたとおり、この「n」というほんとうの事実を見届けたものはもういなくなり、その後の多くの人々の見聞によって徐々に歪められ、最初のころとの著しい乖離が生じます。


たしかに巷で氾濫する「最終情報」は、受取りやすく理解も容易ですし何しろ「考える苦労」を省かせてくれますから多くの人々はそれに甘んじて、それさえ受け取っていれば「識者」になれると考えています。


しかしそれでほんとうに「知った」といえますでしょうか。


かつて近世の哲人デカルトが自身の著『方法序説』で述べたように、二種の精神の持ち主に分け「第一は、自分を実際以上に有能だと信じて性急に自分の判断をくださずにはいられず、自分の思考すべてを秩序だてて導いていくだけの忍耐心を持ち得ない人たち。したがって、かれらは、ひとたび、受け入れてきた諸原理を疑い、常道から離れる自由を手に入れるや、まっすぐ進むために取るべき小道をたどることはできないで、一生さまよいつづける。第二は、真と偽とを区別する能力が他の人よりも劣っていて、自分たちはその人たちに教えてもらえると判断するだけの理性と慎ましさがあり、もっとすぐれた意見を自らは探求しないで、むしろ、そうした他人の意見に従うことで満足してしまう人たちである。」(『方法序説』デカルト著・谷川多佳子訳 岩波文庫 二五頁)として、デカルト自身は第二の部類への埋没性を危惧して、既存の学問や事実・価値観を否定し「世界という書物」を探求して強靭な克己心のもとに粉骨砕身した結果、近代懐疑論を打ち立てて多数の自然科学理論や哲学的命題を生み出して、新たなる時代の開拓者となりました。


そしてデカルトの言をひとつひとつ噛み砕いていくと、第一の部類は自分勝手に物事を曲解していたずらな懐疑主義を展開しご都合主義的な屁理屈を並び立てるネトウヨが該当します。第二の部類においては多くの人々が該当すると思いますが(無論私も例外ではないでしょう)、既存の権威や情報ないし事実・価値観を無条件に受け入れそれを反芻することはせずに自身のパラダイムとして確立してしまう陥穽であります。


もちろん真なる懐疑主義をつらぬくとしたら、それはものすごい険しい道でありますし哲人デカルトのような卓越性がなければ直ちに「第一の部類」に入ってしまうでしょう。


けれども、それに少しでも近づくことは決して不可能ではないと思います。


たとえば、今の核問題においてもなぜ北朝鮮が核戦力への重要性を示すのかは歴史学の見解抜きでは到底語れませんし、「真なる『自律』」という単語を通して考えれば「ひとつの線」としてつながります。

北朝鮮は社会主義体制でも歴とした儒教国でありますから、亡くなった故金日成主席や故金正日総書記含め、朝鮮が近代にて国防をおろそかにし事大外交に陥らなければ、あのような悲惨な過去への回避は出来たでしょうし、今の韓国や日本が陥っている「超大国アメリカへの依存」を考えればそれは容易にわかることでしょう。


そして、それを「遺訓」として受け継ぐ金正恩第一書記においては「戦争・対外膨張」による世界の混迷を望んでいるのではなく脱事大主義の「独立自尊」の国家づくりが第一の課題なわけであります。

これを「行動が読めない」だの「暴走・暴発」だのと連呼する輩たちは、そもそも歴史学的知識が皆無といって良いでしょう。


<参考資料・文献>

・朝日新聞2013年4月16日記事

・『ここが変だよ在特会(仮)』 「朝鮮報道」2010-10-31記事

・『儒教とは何か』 加地伸行著 中公新書

・『方法序説』デカルト著・谷川多佳子訳 岩波文庫

・『政府論〈上巻〉』 (1954年) マッキィバー著・秋永肇訳 古書