新聞配達というアルバイトは、長年やっててもつらいところがあります。


それは誰でもわかるほど「寒い朝に起きるつらさ」です(笑)


しかし良いところもあります。


それはブログ記事のタネに困らないことと、意外に良い給料です。


今回はそんな幸運から手にいれた記事から、現在の日本社会における経営思想を見ていこうと思います。


まあはじめに言っておきますが、私はこの分野でまったくの門外漢なので批判覚悟で書いていきますが何卒よろしくお願い致します。



2013年2月24日~同年3月~2日までの日本経済新聞が主催する「日経ヴェリタス」の記事で、-『驚きの製造現場』「六重苦」が鍛えたモノづくりの底力-という題目で、抜粋要約していきますと、


小題目、-悪条件をどこまで押し返せるか-「電力不足」「労働規制」「高い法人税」「円高」「自由貿易協定の遅れ」「環境対策」


絹織物の産地として200年以上の伝統を持つ山形県米沢市。職人技を生かして多種多彩な織物を世に送り出してきた「ヨネザワ」が今、世界のモノづくり関係者の注目を集めている。


中国から生産移管


NECパーソナルコンピュータ(東京・品川)米沢事業場。NEC(証券コード6701)と中国レノボが日本で販売するパソコンの役6割を生産する基幹工場だ。中国が得意とする汎用品の大量生産とは異なり、顧客の注文に応じ1台単位で仕様を変更する受注生産に特化している。


1日の生産量は少ない日で200台、多い日には7000台、種類2万点にのぼる「多品種変量生産」だが、IT(情報技術)活用を徹底し、現在の1人・1日あたりの生産台数は40台と2000年の8倍の水準に向上。

海外メーカーでは1週間以上かかる納期は最速3日に短縮した。


11年のレノボとの提携後、NEC社内には「国内工場は残らないのでは」との不安もあった。

しかし米沢工場を視察し高く評価したレノボ幹部はノートパソコン生産の一部を昨年末に中国から米沢に移管。

「1秒の改善にこだわる短納期・高品質のモノづくりは簡単に中国がまねできない」。

須田修ものづくり改革グループマネジャーは言う。


円高、高い法人税率、電力不足・・・・・・。

「六重苦」に悩んでいたニッポンの製造業が「最後の戦い」に挑んでいる。

アベノミクスによって円高修正は進んだが、硬直的な労働規制などは未解決のまま残る(引用おわり)



その他にも日本株の上昇やTPP参加への追い風など、「明るい話題」で埋めつくされた記事は中国への利害的牽制も含め、明らかに「製造技術中心主義」がうかがえました。


ここでとあるブログの関連記事も載せておきます。


「数学な苦手な論理後進国」


以前に書いたが、日本は大学で文系、理系と分けてしまう文系は企業での幹部候補生として活躍し、理系は現場のエンジニアになることを期待される。ここで、文系人間は論理的思考よりも人間的関係に固執し、ゴルフと麻雀をやっていれば出世できる。理系は現場で職人のように執着すれば出世できる。そんなおめでたい時代がかつてあった。

今でもこんなステレオタイプ的な企業があるかもしれない。政府はバカの一つ覚えのようにモノづくりという言葉を連呼するのは、上記にマインドコントロールされた昭和宗教の熱心な信者なのだろう。

この上記の考えで一番欠落していることは戦略を考えることがないのだ。もうすでに与えられた戦略をなぞればいい単純な工業化社会での産物である。まさに20世紀的思考というべき単純な構図なのだ。

ITがすでにこれだけ浸透した結果、ハードウェアの価値はもうない。もともとコンピュータは数学的概念を機械として表現されただけだ。常識的な話であるが、コンピュータとはCPUの中には数学的な論理演算ができる数え切れない数の論理回路でできている。論理回路はすべてプール代数によって表現される論理演算を形にしたものである。

CPUのないコンピュータなどない。いくらきれいなハードウェアでもいくら完璧なハードウェアでも意味は無い。今では家電の中にこの論理演算ができるCPUが入っている。

そして、一番重要なのはそこで動いているのは人間が組み込んだプログラムという論理演算式の作品なのだ。それはコンピュータが作ることはできない。人間だけがこれを作ることができる。

つまり、現在のIT社会は全てこの数学的な世界が実現した作品なのだ。物理学がすでにある物を数学的に還元することとは逆に、数学から物を作ることなのだ。

残念ながら現場の工場労働者はこの単純なことがわからない。いや工業化社会ではこれらの論理演算の重要性を理解していないといっていい。彼らは自分にわからない数学的な作品を外注に丸投げして回避してきたのだ。

アップルが成功したのはiPodやiPhoneではなく、音楽を簡単にコンピュータ上で管理できるiTunesというソフトウェアつまり数学的な作品なのだ。ソニーはそれがつくれなかった。結果的にそれがマーケットプレースにしてしまったアップルによってものづくりしかできない日本企業の手が届かないことになってしまった。

いまさら日本のメーカーがつくることはできない。なぜならそのような人間が管理職にいないからだ。特に文系人間は人間関係だけをよくするという全く論理的でない無駄なエネルギーを投入しているからである。彼らに数学的アプローチを望むことはない。

私は理系であるが法律や経営学をよく勉強するが、理系的な人間が文系の世界に入ることを文系人間は嫌がる。それは、彼らが数学的な素養がないことに対するコンプレックスなのだ。

ここで勘違いしてはいけないのは、文系人間は数字には強い。経理的な数字をどう解釈するかは得意なのだ。しかし、数字を読むことを数学と誤解してはいけない。数字をみるのは小学生までだ。数学とは論理的な解釈言語なのだ。数字を日本語にすることではない。

この点がとても重要なのだ。論理的な精緻さを追求することで、より論理的な仕組みをつくることができる。それは人と議論する際にも、世界的にヒットするソフトウェアを作るときにも使われる。

数学的な素養、わかりやすく書けば精緻な論理的思考ができることが重要なのは、この高度化された社会に必須なのは誰でもわかるだろう。

誰でもわかることを20世紀型社会ではできなかった。最初に書いた文理を分離したことで、結果的に文系も理系も数学が苦手になったのだ。もちろん数学的素養の高い人間はいるが、すでに企業を牛耳っているのは数学を理解できない人たちなのだ。

ある企業の幹部がスティーブジョブズともっとゴルフに行けば我々の会社も発展しただろうというバカな発言をしていた。これが実態なのだ。これらの企業を延命させることが日本の癌であり日本という国を衰弱させた元凶なのだ。

インドのように数学が強い国が力を持ってきたときに日本の出番はない。英語が話せる論理的な人間が日本の人口をうわまわる人数存在する。

もう勝ち目はないのだ。誰もわるくない。ゴルフと麻雀をやってきた報いであり、理系を工場の現場に押しつけて丸の内の都心で銀座のクラブのねーちゃんと遊んだ報いなのだ。

仏教でいう煩悩を捨てることこそ悟りなのに、煩悩によって滅びることは盛者必衰のごとしなのだ。

バカは死ななくちゃ治らない。残念ながらそれ以外に方法はない。(『スマートブログ』http://www.smart-blog.biz/492.html


上記のブログ記事が全てを物語っておりますが、大学教育が主に近代以来のドイツ・オーストリア式の専門分化ということを重きにおき、これが日本における学部分けの組織、そしてさらには理科系、文科系をはっきり分ける制度などということは、明治以来の硬直思想の産物であることはいうまでもありません(『文化人類学入門・増補改訂版』中公新書より)。

それに比べ、主に英米における学問体系アメリカに注目して隣接しあった学問どうしの協力と総合化ということが、なにより重んじられます。その最たる例が、数学、物理学、工学、生物学、言語学等々の学問が互いに助け合ってコンピューターが開発されていきました。これはまさに一言でいって「知の結晶」であり、日本がどんなに努力したって作れるものではありませんでした。


第二次大戦が終わってから時は流れ星は移り、ほぼ半世紀以上になっております。

その間、ものすごい速さで歴史が展開し世界の中心的国家は農業社会から工業社会に変貌をとげ、また共産主義の東欧諸国家の体制も音を立てて崩壊しました。さらにはそれが何業かまだ定かでないX業社会へと世界は移りつつあります(『儒教とは何か』中公新書より)。所持している文献の記述ではここまでで終わりですが、今私たちが肌で感じることができるこのグローバル・IT業社会こそが未来のX業社会そのものだとおもいます。


そういう社会の中で、私たち自身の学問に対するあり方も根本的に変わってきますし、日本社会における既存の経営学や経済学だけでは他者との競争にまったく太刀打ちできないでしょう。

なぜなら文理弁別主義からくる元来の知識論では、この高度に抽象化論理化された別次元のIT社会に対応できないからです。 つまり学術の格が上がったわけです。


数学大国であるインドをはじめ、恐ろしい速さで発展拡大していく中国の二ヶ国は未来の超大国を約束された身であります。 そのような背景含め、英語を話せることは当たり前、数学できて当たり前、所謂文理総合の経営体制こそが時代の趨勢を左右するでしょう。 そのような極めてハードルの高い競争社会を生き抜くなかで個々人がいかに知的練磨できるかがカギでしょうし、私たちが気づいたころにはもうすでに世界は10歩100歩進んでいます。 それがいまの加速度的発展世界のセオリーです。


しかし現状においては、理系を現場に押しつけ、英語もろくに話せない役員や接待中心主義の経営体質では到底改善の見込みがありません。 そのうえ理系コンプレックスなどという言葉が蔓延して一手段でしかない陳腐な製造業中心主義にあぐらをかいている既存の企業や政府の「お間抜け思想」で、鬼のような世界を相手するどころか、一蹴されてしまうのが現実です。


日本は未だに「20世紀型工業社会」的思考であり、訳の分からない官製用語である「モノづくり」という虚言を連呼して自尊に耽っている事実に深い憂慮を感じます。 戦後における異常発展は超特殊条件である「戦争特需」抜きにしてはありえませんし、それが製造業と相まって幸運をもたらしたことを理解しえずにいつまでも陳腐化した成功論を振りかざして世界の展望を見失い、衰退国としての人生を歩む道を自ら進んで選択しているようにしか見えません。


専門分業的小開発は多くても、アメリカのような一社会の根本システムを変える革命的イノベーションを日本は持っておりません。理由は上述のことから帰結して、大開発抜きの小開発(<例>アメリカのパラダイム的システム開発と比べた単発型の自己完結した部分的製造開発)が多い事実です。

つまり時代の産業を席巻するシステム技術は容易に陳腐化しませんし、それを下敷きに膨大な諸技術を包括する一大産業となるわけです。 ゆえにそれから生み出される富も莫大です。

それに比べ日本のような単発型製造開発の場合だと、常に他者との逼迫した競争を余儀なくされて富の創出も不安定で、容易に先を越される恐れがあります。


これは前記事-新春「文化論」(中国と日本における文明比較の考察)- で紹介した「大文明の恩恵をうける小文明」という構図とまったくかわりがありません。


また政治面においても、未だに「日米同盟」に固執する後進的保守政治家たちを含め、アメリカ一辺倒の外交戦略、全方位外交の放棄(最初から存在しませんでした)、根拠なきアジア優越から各国の反感を買ってアジアでの孤立は避けられないでしょうし、社会的苦しい立場の在日の方々への差別という愚かしい卑怯行為を含めこの国は本当に滅亡の道を辿っているのが現状です。


-参考資料・文献-

・日経ヴェリタス新聞(2013年2月24日~同年3月~2日)

・『スマートブログ』さん

・祖父江孝男著『文化人類学入門・増補改訂版』中公新書

・加地伸行著『儒教とは何か』同