パソコン復活記念としまして、親記事を書こうと思います。

今回は、日頃用いられている「東洋」と「西洋」という概念について考えてみようと思います

日常言語においてこれらの言葉はしばしば「アジア」と「ヨーロッパ」に帰せられますが、現在ではオリエンタリズムを含んだ語であるということです。

その最たる例が、私たちが住む東アジアを「極東」とする名称であること。
これは歴史学(専門家たちはこれらの諸問題を熟知し、ある種「便宜的」に使用している)や、世界の地域名称ないし天気予報などでテレビで日常的に使われますが、これこそが近代の誤謬を全て含んだ蔑むべき言葉なのです。

幕末・明治期に日本は「アジア」という言葉にしきりに反応し、脱亜入欧論ないし後の大アジア主義・凡アジア主義などの提唱を行い最後は大東亜共栄圏に至りました。

それらを踏まえた上で、まず「東西」の観念の起源からさかのぼっていこうと思います。

「アジア」という語は、古代アッシリア語で「アス(asu)」、すなわち「日いずるところ」を意味し同じ語で「エレブ(ereb/irib)」、すなわち「日没するところ」を意味します。

そしてこれらの言葉が古代ギリシアに流れて「アシア」や神話をもとにした「エウローペー」とされ内容はアッシリアと同義です。

後にこれが更に西へ伝わり今日の「アジア」「ヨーロッパ」という観念を構築しました。

名称開拓の背景として、世界史における史上初の「帝国」(超大国の意)であるアッシリア帝国は前8世紀~前7世紀にかけ強大な軍事力・政治力・経済力をもとに中東地域をほぼ全域にわたって統一し、巨大な版図を築き上げました。

そこで起こった文化はさらに世界帝国であるハカーマニシュ(ペルシア)に引き継がれ、名称確立の担い手となりました。

本題にもどって、「アス」「エレブ」は本来「日いずるところ(東)」、「日没するところ(西)」といった直截的かつ素朴でまったくバイアスのない名称でありましたし、アジア・ヨーロッパはそれだけの意味しかなく、ワンセットとして捉えられそれ以上でもなくそれ以下でもありませんでした。

アッシリアという古代の統合者による名称が、「田舎」であるギリシアに渡りそれを継いだローマでも踏襲されました。

はっきり言えばこの時代は、アジアが温暖・暑熱にして豊穣、富と猥雑さにあふれた驚異の世界であり、対する西や北にしてのヨーロッパは寒冷にして荒涼たる素朴・武骨の地とイメージされていました。

この図式が総合的に逆転するのは、皆さんがご周知の通り「近代」に入ってからのことであります。

さて、時代を降っていくとこれらの「アジア」「ヨーロッパ」などの「東西」の名称は徐々に変化していき、中世・近世においては「ヨーロッパ=キリスト教世界」としてほぼ確立し、19世紀半ばに工業化・軍事化を経て自信を付けた列強により普遍化され、「ヨーロッパ」なる語はまったく別の意として、その圧倒的な文明者として世界のオーダーになりました。

場所は東アジアにもどって、日本は「アジア」という語に固執し近代以来の「文明の終点地ないし完成地」であるヨーロッパを崇め続け、自らを「文明の原初地である卑しい極東」として蔑み、戦後を経た現代においてもその幻想から抜けきれていません。

他のアジア諸国は中国や韓国、シベリアや中央アジアの五共和国(カザフ・キルギス・トルクメン・ウズベク・タジク)などの国々の人は自らを「アジア人」などとは微塵も思っていないのです。

私自身思うのは、こういう頭の観念でひねり出した平面的な考えそのものが間違っていますし、日本自体も反動的国粋主義者から一般の人々におよんで、ほぼ無意識的に「日いずる国」(高句麗国の慧慈僧の発案)を意識して「国旗」もそのような作りになっております。

普通に考えて、地球は立体的な球体であり「東西南北」の観念も存在しえません。
だから日が昇る場所だとか、文明の中心地だとかという観念は土台そのものを失い、またたく間に崩壊していくのです。

まあ平面地図においては、どうしても必要なので「便宜的」に東西南北の観念を使用しますが、現実にそういうものは存在しません。

頭の良い方々は、ここで私の下手な説明をグダグダ聞く前に既に熟知しておられたと思いますが、今一度整理してみますとこのような事実が浮き彫りにされるのです。




『世界の真ん中』作詞・作曲:甲本ヒロト(ブルーハーツ)



<参考文献>
-(興亡の世界史09『モンゴル帝国と長いその後』杉山正明著 講談社)