今回は歴史学の学び方について説明したいと思います。


今日の歴史議論の風潮として、自称歴史家・研究者気取りの人々はやたら近代史ばかり優先したがる傾向があります。(理由として、日本が西洋の力を借りて大陸進出の展望を見いだせたという事実があります)


そもそも「歴史学者」になるためには、とてもハードルが高く有史以前からの世界史の正確な流れを把握することはもちろんの事、西洋哲学すべての知識を獲得(歴史哲学の体得)して初めて自身の「歴史観」というものが出来上がり、その上で歴史学の基礎技術である「考古学・金石文学・古銭学・年代学」などの専門知識を会得して、いざ実践に赴くこと(歴史を語り、つくること)が可能になります。


その上で、私を含め多くの人々は歴史を語ることは本来許されず、歴史学者の方々がこしらえた歴史をひたすら受け入れてる立場であるということです。


そういうことをまったく理解していない阿呆な連中は、自身の乏しい知識を頼りにして暗い洞窟の中を灯りひとつ持たず、ただひたすら猛進して歴史学の巨大な迷路で遭難し、その中の怪しげな商人に買わされたいかがわしい地図を頼りにますますドツボにはまっていきます。


つまりまともな歴史知識をもたない人は、己の臆見に基づく陳腐な「事実」を提示しそれをあたかも「しごくまっとうな一般論」にすり替えるという恥ずべき誤謬を犯すことであります。


そうしたことを踏まえて、今回の議題としてなぜ近代史から初めてはいけないのかということを説明致しますと、簡単に言えば四則演算を理解しないで方程式に挑むようなもので、もっと極端に言えば初等数学を飛ばして高等数学を知ろうとするようなものです。


なぜなら、歴史という膨大かつ遠大な流れにおいて、古代・中世・近世から受け継いだ歴史の後半段階の最も入り組んだ近代史を、ただそれだけ取り出し勉強するだけではまったく意味をなさないというか、歴史の連続性を無視してただその空虚な「事実」だけを取り出すことであります。


その連続性を廃した「死んだ事実」を取り出しても真理はまったくつかめず、むしろ近視眼的な浅はかな偏見を生み出すだけなのです。