手紙という名の暴力
手紙には、返事を書かなければならない
なんて誰が決めたんだろう。
「プレゼントって 暴力だから
あげるのももらうのも ぼくは苦手だな」
というのは吉野朔実「ぼくだけが知っている」という漫画に登場する今林くんという男の子の台詞だが、中学生の私はそれを読んで、好きだった男の子から返事が来ないことにがっくりしている自分を戒めていた。
今林君は小学生なのだが、こんな小学生がいるわけはないと思いつつ、こんなかしこい男の子がいたらきっと好きになっちゃうわ。と思った。
それが一方的な行為であるがゆえに、プレゼントや手紙は暴力になり得る。
善意から贈られたものであるか否かにかかわらず。
返事など、どうして期待していたのだろう。
伝えたい事柄があるから、それを手紙に書き、
それを相手が受け取って、読んでくれる。
そこで目的は達成されたはずだ。
ほんとうなら。
だけど大抵は
相手からの返信を期待してメールを送信する。
そして、来ない返事に、
返事を期待している自分に
疲弊する。
相手を試しているようで、
自分も試されているようで
なんだか常にそわそわ、
居心地が悪い。
こんなんじゃ書かなきゃ良かった、
出さなきゃ良かった。
そしてだんだん、臆病になる。
自分の書いた手紙が相手の手元に残っているのが嫌だった。
昔書いた手紙が今も誰かのところにあると思ったら、いてもたってもいられない、
生きた心地がしない。
できることなら、自分が手紙を送ったひとりひとりの所へ行き、それらを全部回収して、
燃やしてしまいたかった。
昔の私が、
様々なひとに送った、手紙やメールの中に今もいる。
たぶん二度とは見ることのない、
かつて私の指が綴った
言葉たち。
あの時の私、もう自分では思い出すことさえ困難な私が
当時のまま、相手の手元にある紙の上で 息を潜めてる。
私はいったい、どんな事を書きつけて
あなたがたにそれを 送りつけたのだろう。
そしてあなたたちはそれを、どんな風に
受け取ってくれたのだろう。
それを見て、
どんな風に笑っただろう。
どんな風に泣いただろう。
どんな風に喜んだだろう。
どんな風に傷付いただろう。
それとも、どんな風に無関心だっただろう。
何ひとつ、私に知らされることはなくて、
よこされた返事から推測するより他、ない。
手紙を、今では年に数回程度しか書かないけれど、
小学校から高校にかけて私は手紙魔で、たくさん書き、やりとりしていた記憶がある。
今までにもらった手紙はほとんどすべて、大切に取ってある。
携帯電話のメールは保存容量を超えると消えてしまうのだと知った時はショックだった。
その頃私は携帯電話を持っていなかったので、平然とその事実を告げる友人に重ねてショックを受けた。
人からもらったメールが、消えてしまっても、平気なのか。
今では私も携帯電話のある生活にもすっかり慣れてしまった。
今までに3台の携帯を使い、たくさんのメールが、そこから消えていった。
それでも今も、メールが消えてしまうのは切ない。
どんなに短かろうと、
大した用件じゃなかろうと
送り主が、私に、時間と労力を使って打ってくれた文章なのに、
当然のように、新しく届いたメールに押し出される形で姿を消す。
そしていったい、どこへ消えるのだろう?
受信BOXには614件、
まだこの携帯で最初に受信したメールは残ってる。
いつ容量がいっぱいになるのかはらはらしながら、
ツタヤとBEAMSの広告メールから、ゴミ箱に運ぶ。
友人から、メールをもらうと嬉しいし、
手紙なら尚更、飛び上がるくらい、嬉しい。
だけど返事を書くことにはいつも、腰が重い。
自分の意見なり、気持ちを伝えようとすることにはエネルギーがいる。
勇気がいる。
それを受けとった時の相手の反応に対する恐怖
自分の意図していたように伝わらないのではないか という恐怖
自分の意図しないように受け取られてしまうのではないか、という恐怖
それを直接知ることのできない恐怖
予期しない答えが返ってくるかもしれない恐怖
予期していた答えが返ってくるかもしれない恐怖
何も返ってこないかもしれない恐怖、
そんな無数の恐怖と戦いながらも
辛うじて私に送信ボタンを押させるのは
返事を書かなければ、という義務感か
もしくは書かずにいられない程の強い想いか? ??
そうでなければほんとうは
メールなど、
手紙など なければいいのに、
私は今日も、パソコンに向かって、携帯に向かって
何かを一心に、打ち込む。
まるで祈るように。
人が携帯の画面に向かう姿は何かを祈っているようだ、と言ったのは
誰だったっけ?
願わくば
どうか、私の手紙は捨てて下さい。
私のことは忘れて下さい。