そんな時間はない
暫く
ながらく、ブログを書いていなかったのは
初期衝動が無くなったためか
それ共
他に エネルギーを費やしているためか
書く必然性は無くなっていた。
必然性の問題 ?
必然性の問題。
忙殺されるのは無論 好きではない
のに忙殺されて
日々は色濃いのか
それとも
薄浅いのか
何にせよ
眠っていても
起きていても
生きている それだけであたしは エネルギーを消耗する。
表現ということばが好きではない
のは たらい回しにされて
摩耗しているからだろう。
「個性」然り
「メッセージ」しかり。
そもそも「表現」等というのは当たり前の行為で
声高に叫ぶものでもない。
言葉を発する ということも
服を着ることも
ひとに向ける笑顔
ひとり不貞腐れて、うつ伏せで寝ていることだって
表現と呼ぶ事ができる。
ってか あたしは呼ぶ。
「自分探し」なんかも然りで
当たり前過ぎてお話にもならない。
言葉を発するには含羞が要る。
言葉に恥じらいをもたぬ者
にそれを発する資格は無い。
その資格のない私は
こんな風にして恥をさらす。
最近 嫌いなものが増えてきた。
単なる言葉だというに
逐一 ナーヴァスに反応するのは
あまり賢い処世術とはいえない。
だけどそれがどうしたというのだ。
さえない一女子は、
しがない芸大生は
あらん限り ナーヴァスになって
自分を守らなければならない。
経験知と一般則でもって
自らを 搾取するものたちから
或いは自分自身から。
エンタテインメントという概念がわからない
私のゲージツの教科書に
entertain は無い。
「芸術は、傷つける事によって人を感動させる」
旨のことが先日、読んだ「脳と仮想」茂木健一郎、に書いてあって
そうそう、そうなのよねーーとおもいながら読んでいたわけですけど、
「全ては幻想、仮想である」
とあたしは(あたしも)思っている
というのは置いといて、
芸術とはなにか、
とかそんなのはほとんどどうでもいいけれど、
カタルシスを要求するのが仮に芸術ならば
痛みを伴わないカタルシスは存在しない。
と、あたしが思っている
のもべつにどうでもいいことだけど。
アート(って言葉もあんまり好きじゃないけど)とデザインの境目も、
アアト と日常 のさかいめ も
日常と非日常の境目も
超えたいあいまいに したいぼやかしたい
ぼやかせなくて あたしはいつも
なんだかぼんやり空をみている
そんな時間はない
なんだかいつも呆気にとられる
そ んな 時間 は な い 。