困窮した日常生活の状況を訴え続けることに何の意味があるのか:


問題だと思うこと:

🔸問題の本質の認識の違いが、どの様に違っているのかが分からない。そして、共有できる情報がない。その為に、全体像が見えてこない。

🔸その間にも、落ち着いてその問題の解決方法を考える時間を妨害される。無関係の問題により無駄な時間が消費される。

🔸通常の生活にも困難が生じているのに、残り少ない一日の時間にその問題に集中しなければならないが、自宅内での生活環境から、やはり落ち着いて何かを考える事が出来ない。考えている間にも健康被害に遭っている。

🔶末端にいる人間にとっては、死活問題なので、その問題の解決が第一優先である。その為、日々時間単位で考えざるを得ない状況だが、自宅内での不穏で危険な環境の中では、やはり五感への刺激や痛みや不快感により、自身の生活環境の問題の解決が最優先で、誰にも理解が得られない為、生活環境の問題を発信せざるを得ない。

🔸たまたま知り得た情報と自身の思うことがリンクした時に、その事をゆっくり考える事ができたら、どんなに有益な時間が得られるのだろうと思う。それを思うと、長期間に渡る困難な生活が何の為に強いられているのかと思わざるを得ない。



個人レベルでは、そう思えるような状況なのだが、10年程前からの全体的な流れと自分の感覚と進む方向とは一致しているが、身近に起きている現実から、全体像がどのような経過を辿っているのかが分かりにくい。

全体的な流れから考えても、私の周りで起きている大部分の割合を占める生活の妨害の時間に何の意味もないと感じる。

通常の生活が出来ていれば、思うこと感じること、それを纏める時間も出来る。何より日常生活の後回しした問題は放り出したままの状態なので、その解決にも取り組むことが出来る。


なぜ、私は、この状況が長期間に渡り強いられているのだろうか?

私の悲惨な生活環境は誰も知ることがない。

そして訴え続けても、根本的な解決には至っていない。


未だに私のような生活状態の人がいるのだろうか?