2月10日 は海の安全祈念日です。


 全国水産高校長協会が2003年(平成15年)に制定。


2001年(平成13年)2月10日8時45分(日本時間)愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が、アメリカ・ハワイ州のオアフ島沖で、
浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され沈没。


乗務員35人のうち、えひめ丸に取り残された教員5人と生徒4人が死亡した。また、救出されたうち9人がPTSDと診断された。


これを追悼し、実習航海の安全を祈念するため、この日は全国の水産系高校で黙祷が捧げられる







以下、小説「新・人間革命」10巻 桂冠の章より


山本伸一の言葉は、鋭さを増していった。

 「電話の応対一つとっても、そうしたことがあれば、会員は学会本部に失望し、不信をいだくようになってしまう。

 外部の人ならば、学会はひどいところだという印象をもち、批判的になり、学会の敵のようになってしまうかもしれない。

一つ一つは小さなことだが、その積み重ねが、学会という、堅固な信頼の城を崩していくことになる。


だから、小事が大事なんです。大問題、大事故も、みんな小さなことから始まっている。



 先日、マイアミ沖で起こった、観光船の大火災も、小さな失敗が積み重なり、大惨事になっているではないか」


 この大火災とは、十一月十三日に起こった、パナマ船籍の観光船「ヤーマス・キャッスル号」(五、〇〇二トン)の火災のことであり、約九十人の尊い人命が失われたのである。



 同船は、前日の十二日午後五時、五百五十二人を乗せて、アメリカのフロリダ州のマイアミから、バハマのナッソーへ向かって出発した。約十二時間の夜間航路である。



 火災の原因や経過は、後にまとめられた、米国沿岸警備隊の調査報告等によれば、次のようになる。



 ――「ヤーマス・キャッスル号」は、建造されてから三十八年ほどもたち、木造部分が多く、防火対策も十分ではなかった。


 また、航海スケジュールにも遅れがみられるなど、老朽化の兆候も出始めていた。


 船に火の手が上がったのは、十三日の午前零時五分ごろ、メーンデッキの物置からであった。

原因は、今なお、不明である。


 トイレを改造した、この部屋には、使えなくなった調度品など、燃えやすい物が詰め込まれており、スプリンクラー(自動散水装置)は設置されていなかった。


 出火から二十五分が過ぎた午前零時三十分、乗組員が船内を点検に回った。


 ところが、これが、かたちばかりの点検であり、丹念に部屋を調べようとはしなかった。

もし、一部屋ずつ細かくチェックしていたならば、当然、この時に、火災は、発見されたはずである。


 午前一時十分、ようやく船の司令室の航海士に、火災の報告が入った。


 だが、発生から一時間以上が過ぎており、発見された時には、既に、消し止めることはできぬほど、火勢は強くなっていた。



 乗組員は、消火作業にあたったが、消火ポンプの水も十分に出なかった。

 火は、瞬く間に燃え広がり、もはや、なす術はなかった。
 船全体が、炎と煙に包まれ、逃げ惑う乗客たちの悲鳴が響いた。


 日ごろの点検が不十分であったために、部屋の窓が開かず、脱出できずに、命を失った人もいた。

 乗客は、まだ火の手が回っていない、後部の甲板部分にあった救命ボートに殺到した。

 その時、人びとは、信じがたい光景を目にした。船長や航海士たちが、救命ボートを使って、われ先に脱出してしまったのである。
 後に、この船長は、世論の激しい非難を浴びることになる。


 しかし、その一方で、船長たちが、責任を放棄して逃げ出したあとも、船にとどまって、乗客の救出にあたった乗組員もいた。

 たとえば、テリー・ワイズという、簿記・会計担当の二十三歳の青年は、わが身の危険も顧みず、救出作業にあたった。

 彼は、船の窓から抜け出そうとしている人びとを、甲板に引き上げ、また救命具を持たずに、海に飛び込んだ人のために、海のなかへ、マットレスやイスなどを投げ込んでいった。

 さらに火の手が迫ると、一緒に救援作業にあたっていた空軍士官に自分の救命具を与え、海に飛び込めと促した。

 そして、足を骨折して、意識を失いかけた婦人を励まし、助け出すなど、最後の最後まで、逃げ遅れた人の救出にあたった。

 彼は、こうして約三十人もの、尊い人命を救ったのである。


 また、近くにいたフィンランド船や、約二十キロメートル後方を航海していた客船「バハマ・スター号」も、救援に駆けつけたのである。

なかでも「バハマ・スター号」は、燃え盛る船の、わずか百メートルにまで近づき、ブラウン船長の陣頭指揮で、乗客の救出にあたった。


 しかし、出火から六時間後の午前六時五分、「ヤーマス・キャッスル号」は、遂に沈没したのである。
 この火災については、日本の新聞各紙にも、大きく報じられ、アメリカのメンバーからも、山本伸一のもとに、詳細な報告が寄せられていた。


 伸一は、この事故を、他人事とは考えなかった。自分たちの身にあてはめて、大事な教訓としてとらえていたのである。




山本伸一は、厳しい口調で語っていった。

 「大きな事故が起こる前には、必ず、なんらかの予兆となる現象がある。来客を平気で待たせるような風潮ができつつあることも、その一つです。

また、以前は遅刻する者など皆無であったが、最近は遅刻者も出ている。こうしたことも、大問題が生ずる予兆といえる。

その兆しを見逃してしまい、迅速に改めるべきを改めておかなければ、将来に、大きな禍根を残すことになる。だから、私は、口うるさいようだが、厳しく言うんです。


 また、『ヤーマス・キャッスル号』の場合、船内の点検で、火災の発生を発見できるはずなのに、それができなかった。

これは、本来、当然やるべきチェックを怠ったからです。要するに、手抜きです。

そこには、″少しぐらいは、手を抜いても大丈夫だろう″という油断と惰性がある。乗組員の、ほんの少しの油断と惰性が、取り返しのつかない、大惨事につながっていった。


 では、そういう油断や惰性、怠惰は、どこから生じるのか。それは、責任感の欠如からです。


 ゆえに、広宣流布を推進しゆく使命を担った本部職員は、自分に与えられた仕事だけをこなせばよいという、雇われ人の根性であっては絶対にならない。

ともかく、職員は、自分が、全学会の責任を担うのだという、私と同じ自覚、同じ決意に立ってもらいたい。

全員が、私の代理であると思いなさい。そして、学会を、職場を死守していくんです」


 伸一は、広宣流布を願うがゆえに、学会を思うがゆえに、本部職員には厳しかった。

だが、彼は、誰よりも、自分自身に対して、最も厳格であった。だから、いかに厳しくとも、皆が彼を信頼し、付き従ってきたのである。


 人間の育成とは、口先だけでできるものではない。ともに行動し、自らが範を示してこそ、初めてなされるものだ。


 彼は、毎朝、本部に到着すると、職員一人ひとりの顔色を注意深く見た。疲労がたまったり、生活のリズムを崩して、体調を壊してはいないかを、気遣っていたのである。


また、職員の両親をはじめ、家族のことにも心を配り、時には、父親の就職の世話をすることもあった。
 皆が、何も心配せずに、自在に力を発揮できるように、伸一は、学会本部を、あらゆる面で最高の職場にしようと、心に決めていたのである。