1902年1月30日は
シベリア鉄道がウラジオストク~ハバロフスクの開通によりほぼ全通した日です
シベリア鉄道は極東ウラジオストクからモスクワまでの9,297キロを走破します。
ウラジオストクからモスクワまで乗車すると何と1週間かかるそうです。
高い運賃を払ってでも、求道の心を燃えがらせて、来日されるSGIの同志が世界中にたくさんいらっしゃいます!
以下、2005.1.2 スピーチ(2004.9〜)
(池田大作全集第97巻)より
4 世界の同志が求道心を燃やし来日
本年は、SGIの発足三十周年の住節である。
世界各国で、ともに戦っている友のことが、私の生命から離れることはない。
どれほど、人知れぬ奮闘の連続であるか。その労苦が痛いほど、私の胸に迫る。すばらしい前進のようすを聞き、歓喜をもって、賞讃や励ましを送らせていただくこともある。
その世界の同志が、求道の心を燃え上がらせて、研修のため、日本に来られることが、いかに大変であるか。
疲れも大きい。旅費の工面も並大抵ではない。まとまった休暇を取ることも。これまた容易ではない。
今、世界広布の進展とともに、ヨーロッパからも、北米からも、中・南米からも、東南アジアからも、インドからも、オセアニアからも、
そしてアフリカからも、わが尊き地涌の友は、さまざまな苦難をものともせず、広宣流布のために、日本へ、勇み集ってこられる。
御聖訓には、「道のりの遠さに、深き信心の志があらわれる」(御書一二二三ページ、通解)と仰せである。
大聖人は、この同志を、いかばかり讃嘆しておられることであろうか。
きょうは、海外での苦労の一端を偲んで、「シベリア鉄道」などを使って、日本と欧州を行き来した同志の姿を紹介したい。
5 「題目が種に 地涌の菩薩が躍り出た」
欧州からの同志が、一九六四年(昭和三十九年)ごろ、パリから日本へ来るために、どういう経路をたどったか。
それは、パリから列車でモスクワへ。
モスクワから飛行機でハバロフスクへ。
ハバロフスクから列車でナホトカへ。
そしてナホトカから船で横浜へ、という経路であった。
まず、パリからモスクワは、列車で二泊三日。
道中、チェコスロバキア、ポーランドなどの旧東欧諸国を通った。
冷戦下でもあり、共産圏の国々を行くのは不安がともなったという。
ソ連(当時)が近づくと、線路の幅違うので、全車両の車輪を取り替えた。車輪の交換に四時間ほどかかったことも、記憶に残っている。
モスクワに着くと、ホテルで一泊。
モスクワからハバロフスクへは、飛行機で約十時間。
ハバロフスクから、ナホトカまでは、列車で一泊二日の旅となる。
さらに、ナホトカから横浜へは、船で二泊三日であった。
「列車や船の中で、同志とともに、小さな声で唱題会を行ったものです」と、皆、懐かしく語っていた。
ある欧州副女性部長は、モスクワからハバロフスクへ向かう機中、飛行機のプロペラの騒音で、落ち着いて話もでき、なかったことが、強く印象に残っているという。
また以前、私の妻が、フランスの総合婦人部長と懇談したときのことである。
「当時、旅の間、ずっと、お題目をあげていました」と総合婦人部長。
妻は深く感動し、「その題目が種となって、ロシアの大地から地涌の菩薩が躍り出たんですね」と語っていた。
6 オーストリアの理事長は、日本から欧州へ向かうさい、陸路、シベリア鉄道で移動した。
そのときの旅程もうかがったことがある。
一九六九年(昭和四十四年)六月十日、横浜港を出航。当時、二十七歳。
携えていたのは、御本尊と御書。そして、トランク一個。片道切符を握りしめての旅立ちであった。
横浜港からナホトカまで二泊三日。ソ連の船で、一番安い四人部屋。
津軽海峡では、船の揺れが激しく、ほとんどの人が、食事もできなかったという。
ナホトカに着いてからは、港、空港、駅での写真撮影は禁止。
ナホトカからハバロフスクへは十時間。夜行列車で朝に到着。
ハバロフスクからモスクワまでは、シベリア鉄道で七日間の旅となる。
シベリア鉄道は、全長約九千三百キロの壮大な道のりである。
二等寝台は、四人部屋だった。食事は食堂車でする。朝、昼、タが、それぞれ、毎日、同じメニューで困る。
味も、あまりおいしくない。途中の駅で、停車するが、どれくらい停車するか時間がわからない。停車中は、駅のホームを散歩した。
「六月のシベリアの自然は、本当にすばらしい。花と緑のじゅうたんのようでした」と理事長は言う。
とはいうものの、平原と森だけで、人や家は見えない。
食べて、寝て、外の景色を見るだけの単調な一週間は、やはり、つらかったという。ずっと題目を唱えながらの旅であった。
モスクワに到着後、モスクワ大学を見学。その建物の威容に圧倒された。
その後、モスクワから列車「ショパン号」で三十六時間。音楽の都ウィーンへ到着したのである。
7 初めてロシアへ「そこに人間がいるから」
私が妻とともに、初めてロシアを訪問したのは三十一年前(一九七四年)の九月であった。
当時、「宗教否定の国に何をしに行くのか」との偏見と悪意の批判もあった。
「そこに人間がいるから行くのです」と、私は答えた。
どんな国の人であっても、同じ人間である。この一点で心を開いて話しあえば、必ず理解しあうことができる。それが私の信条であった。
ロシアへ向かう機中からも、またロシア滞在中も、ユーラシアの広大な大地にしみ込ませるような思いで、民衆の幸福を祈り、間断なく題目を唱えた。
今、わが同志が妙法のために往来したロシアにも、SGIの友が誕生し、活躍している。
シベリア鉄道沿線の諸都市にある文化・学術機関からも、顕彰が続いている。
すべては、平和と文化の連帯を広げゆくSGIの皆さまへの絶大なる賞讃にほかならない。
(=二〇〇五年一月までに名誉会長には、モスクワ大学の名誉博士〈一九七五年〉、同大学の名誉教授〈二〇〇二年〉、
モスクワ・国際大学の名誉博士〈一九九四年〉、ウラジオストク・極東大学の名誉博士〈一九九六年〉、
ロシア国立「高エネルギー物理研究所」の名誉博士〈一九九八年〉、ブリャート国立大学の名誉教授〈二〇〇四年〉の栄誉が授与されている。
さらに、極東国立工科大学の名誉教授、ならびにバイカル国立経済法律大学の名誉教授が決定。
またシベリア鉄道の中間に位置するオムスクでは、百万坪を超える草原や白樺の森が「池田大作記念庭園」と命名された〈二〇〇二年〉)