昨日は私の人格形成?について、幼少期の話をしたけど、今日はパニック障害になったきっかけのお話をしてみようかと思う。
あれは26歳の夏の事だった。
当時の夫と息子、義母と義母の友人というメンツで野球観戦に行った。
勿論甲子園。勿論、阪神の応援に。
球場へは義母たちとは別行動で、親子3人で行った。
甲子園近くのショッピングセンターで腹ごしらえをして、7回で飛ばすジェット風船を買って中に入った。
試合が始まってすぐに急にお腹が痛くなり、同時に吐き気をもよおした。
「トイレに行ってくる!」元気に報告してトイレへ。
・・が、どんどん気分が悪くなり、今帰らないと、どんどんしんどくなる!!何故かそう思った私は、一度席に戻り、なんか無理そうなので一人で帰ると言った。
全員の了承を得た私は球場を後に。
甲子園の駅に着くと気持ち悪さがぶり返し、最高潮になる!
やばい!無理!!寝ころびたい・・。と思ったので、駅長室に駆け込む。
ちょっと寝かせてください。とかなんとか言ったように思う。
駅員さんは快くベンチを貸してくれ、その後また吐き気がきた時には駅長室のトイレを貸してくれた。
「マシになるまで寝ていってくださいね。」
そう言われたのと同時位にバッグの中の携帯電話が鳴った。
夫からだった。
出ると「お前!風船カバンに入れたままやろ!!」と、怒っていた。
「あ。ごめん。今それどころじゃなくて・・。」と、状況を説明する。
「駅長室やな!!取りに行くわ!!」・・て・・・売ってるよ。買えよ。
そう思いながら、どんどん気分が悪くなる。
最高潮にしんどくなった時、夫が駅長室に現れる。
家族が来たと知って安心する駅員さん。
風船をひったくって出ていこうとする夫に「待って。やばい。無理。」と言う。
「なんやねん!おかんと来たんが気に入らんのか?」とんちんかんな事を言う夫。
因みに義母とはかなり良好な関係だった。離婚した後もずっと・・。
この時、多分血の気が引いて物凄い顔色をしてたんだと思う。
駅員さんが「救急車呼びましょうか?!」と言ってくれた。
「あ、おねが・・」「結構です!!」私の言葉を遮って夫が答えた。
「え?もう無理。呼んで?」「救急車なんか呼んだら恥ずかしいやろ!!」
その辺りから両手がしびれ始めた。
両手、両腕、次に顔が痺れた。
そのうちお腹が痺れてきて感覚がなくなった。
あ。なんか、お腹が楽になった。
そう思った時、駅員さんが「救急車、呼びますね!」
夫が「結構です!」
駅員さんが「呼びます!」
駅員さんが勝った。
救急車の中で過呼吸の処置を受けると、感覚が戻り一気に気持ち悪さも復活したが、運ばれた病院で点滴を受けるとかなり楽になった。
偶然にも隣のベッドに同じく過呼吸で倒れたらしき女性が、付き添いのご主人と話しているが聞こえた。
「お前は無理しすぎやねん!ね。先生。無理しすぎたんですよね!?」
思いやりと優しさが溢れていた。
ふと夫に目をやると、面倒くさそうに椅子に腰かけてそっぽを向いていた。
対照的な2つのベッド。
結婚半年で離婚届を取りに行った位、大失敗だと思った結婚生活だったけど、息子の為だとか言ってなんだかんだ持ちこたえていたけど、多分この時、もうダメだと思ったんだと思う。
そして、その次の日から・・。
今でいうパニック発作を起こすようになってしまう。
物は食べられないし、度々発作を起こすし、過呼吸になるし。
数年は救急車の音でも過呼吸になるし、電車にも乗れなかった。
甲子園には27年経った今でもまだ怖くて行けない。
最初は勿論分からないので内科で検査をした。
原因が分からなくて悩んでいた時、父(私が高校生の時に居場所が分かった。)が、幼少期から通っていた東大阪にあるかかりつけ医に連れて行ってくれた。
昔からある小さな内科だけど、その先生を家族全員信頼していたので。
症状を言うと、先生は「心療内科に行きなさい。」と言った。
そして、当時住んでいた家の近くの総合病院の心療内科を受診し、不安神経症と診断される。
パニック障害だと言われたのはそれから何年後だったか‥。
この時も、私が???って思ったっけ。
忘れっぽい私が、この話を書こうと決めた時、思い出せるかな?って思ったけど、やっぱり鮮明に覚えてる。怖かったこと、腹立ったこと。
それから27年。
そんな怒り全く引きずってないし、今は理解ある旦那さんもいてなんの問題もなく生活してる。
・・・でも、治らないんだよなー。
本当にしつこい。この病気。
もう、一生付き合っていく覚悟はできてるけど。
あの日あの時ああじゃなかったら・・。
さすがにこれに関しては思ってしまう。
そういう訳で私は吐き気が怖い。
抗がん剤の副作用が怖い。
副作用が軽く済みますようにって・・神社にお願いしに行こ。