東日本大震災から、3年経ちました。
今日は、妹のところに遊びに行っていました。14時46分前後に、各テレビ局で特集が組まれていました。ちょうど、その時刻にテレビをつけて、見させてもらいました。そして、妹と「あの時は…」と話し合いました。
ボクは、埼玉県にある会社で仕事をしていました。窓が閉ざされ、雷雨にも気づくことができない会社でしたが、地震の揺れは感じます。横揺れが長く、普段は男性2人で動かすような重い棚が、軽々と(勝手に)移動していました(キャスター付きなんですが)。だから「大きい地震」と気づくことができました。しかしボクらは、今まで経験のない揺れに、怖いと思うよりは、テンションが上がりました。係長がすぐパソコンで検索し、「宮城で震度7だって」と情報が入って来ました。又、課長は、工場長たちと会議しに、度々席を外しました。そして会議後は、みんなを集めて報告です。「もう電車が止まっちゃって、動かない」「社バスが大宮まで行くが、女性優先」本来、最寄り駅と会社のピストン運行でしたが、最寄り駅から会社まで、20分くらいで着くのに、「社バスが到着するのに、1時間以上かかっている」ようでした。電車が止まってしまったので、夜勤のメンバーが出勤できませんでした。我々日勤者が、遅くまで仕事しました。会社にも、そこで働く人にも害がなかったので、出荷時間は通常通りです。課長が、みんなを集めて報告している最中も余震があり、みんながゆらゆら揺れていました。初めてです、地震で酔ったの。気持ち悪くなりました。
ボクは、歩いて帰りました。しかし途中、道路にヒビが入ったか何かで通行止めになっていて、知らない道に迂回させられたため、少々遅くなってしまいました。
実家(茨城県)に住む両親と連絡を取ろうと思いましたが、実家付近は停電になり、ケータイの充電もできなくて、電気が復旧した12日午後になりました。ろうそくを灯しながら、夕飯を食べたそうです。
今日、テレビで改めて、岩手県・宮城県・福島県が酷い有り様だったことがわかりました。3階の上(屋上)に避難したが、津波はそれを上回ったこと。ある雑誌に遺族のことが載っていて、ボクは「生き残った方がつらいかも」と思いました。自分を高台に避難させてくれた人が、津波に流され亡くなった。家族みんな死んでしまったのに、何で自分だけ生きているんだ!? 人は、どんな形であれ、いつか必ず死にます。夢があったのに…。苦しかっただろうな…。無念だったろう…。いろんな思いはあります。でも、あの光景を見ては、生き残った方が不幸とさえ感じます。
この大震災のせいで亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。