母が5才の時、東京大空襲に遭いました。空襲自体は何度もあって、おそらく、今でも鮮明に覚えているのは、3月10日の大空襲だろうと思われます。
当時5才の私は、母と共に防空壕へ避難しました。防空壕は、人がひしめき合っていました。防空壕の出入口が2ヵ所あって、その内の1つに、投下された爆弾が落ちました。防空壕の中は、火に包まれました。もう1つの出入口から、大人たちが、我先にと出て行きました。私は、大人たちに払い除けられ、たった一人、防空壕に取り残されました。防空壕を出たところでは、母が「K子! K子!」と叫んでいました。私が泣きながら外へ出ると、母が、火で燃えてしまった髪の毛の煤を払ってくれました。その後どうしたのか覚えていませんが、辺りは火の海で、黒こげになった人たちが、歩いていたり横になっていたり…悪夢でした。
テレビや写真等で、悲惨さはわかりますが、防空壕って、見たことないんですよね。大人が何人くらい入れる大きさなのか。当時も東京は、人口多かったはず。防空壕は、いくつ(何ヶ所)くらい存在したのでしょうか。どういった場所に作られてあったのでしょうか。母は、「おじさんの家では、畳の下が防空壕になっていた」と言ったこともあります。実際避難したのか、ただ見せてもらっただけなのかはわかりませんが。
1985年8月、日本航空123便が墜落して、540人の死者を「髪の毛1本でも見逃すな!」と探し、照合していきました。東日本大震災の時も、同じように。戦時中は、どうだったのでしょうか。戦いに行って亡くなった方は、ある程度、名前が残されていますが、空襲で亡くなった人たちって、記録残っているんですかね。戸籍上に「東京大空襲において死亡」みたいに。ドラマとか写真とか見ると、ぞんざいに遺体を扱っているように思えます。身元きちんと調べたのかしら。母が見たような黒こげになった人の身元は? 気になります。
戦後、徴兵されて離れ離れになっていた父と母たちは、どこでどのように再会したのか気になります。焼け野原になった東京。家も目印もなくなってしまったのに。おじいちゃんが死ぬ前に聞いておけば良かった。
では、また。