「ひかりはきっとさびしくて死んだのね。」
ある春の陽気の中、大学のカフェで楓とお茶をしていると、ふと思い出したようにそんな話をした。
「ひかり?誰のこと?なに?」
僕は突然の話にすこし困惑した。
「小学生のころにひかりって友達がいてね。ちょうどこんな春の暖かい日に死んだのよ。」
すこしぎょっとした。なぜ何もない平和な春の日にいきなりそんな話を、と思わなくもなかったが続きを聞いてみることにした。
「その子はなんで死んだの?友達?」
「うん、友達よ。ひかりはね、たぶんいじめられてたんだと思うの。すこし変わった子でね、ちょっとボヤッとした女の子だったのよ。見た目は結構かわいいんだけど、すこしだけ頭のネジがズレてるというか。だから周りの子たちに疎まれていじめられてたのね。」
「そうなのか、かわいそうな子だね。いじめを苦に自殺...とか?」
楓はすこし黙ってから首を振る。
「んーん、違うわね。あれは『殺人』よ」
「え」
僕はまたぎょっとする。さっきよりもさらに。
「...殺されたの?いじめがエスカレートして?」
「んー、ちょっと違うわね。」
すこし言いづらそうな雰囲気を感じたので、話を促してみることにした。
「じゃあその子はどうして死んでしまったの?」
「...。」
楓は喋りにくそうだった。
「そうね、あまり喋りたくはないけれど、もう時間も経ったことだしあなたになら話してもいいかもね。」
僕は楓の信頼がちょっとうれしかった。

ひかりはね、いじめられてたんだと思う。女子にも男子にもすこしボーッとしたところがあったり、顔が綺麗だったことも女子は気に食わなかったのかもしれないわね。私は知らないけど隠れて好きだった男子もいたんじゃないかしら。ほら、男の子って大人しくて守ってあげたくなるような女の子のこと好きでしょ?とにかくひかりはいじめられてたのよ。でも大半が些細な大したことのないいじめよ。こういうと正義感の強い人は「いじめに大小なんてない!」なんて怒り出すかもしれないけど、それは置いておいて話を聞いてね。
ひかりに対するいじめは、いじめとはいってもランドセルを隠したり、靴を隠したり、帰り途中に背中をこづいたりとかそんな子供らしい些細なものだったのよ。もしかしたら本人もいじめをいじめと気がついていなかったんじゃないかしら。それでね、ある日いじめっ子とひかりが遊んでいるとーーーーーいじめっ子と遊ぶなんてヘン!と思った?でもね、そういうものなのよ。いじめながらも遊んだりするものなのよ子供って。ヘンよね。
いじめっ子とひかりが遊んでいる時にいじめっ子たちが池にある草を使って大きな舟を作ったのよ。大きなといっても子供にとって大きなってくらいのものよ。だいたい1メートルくらいのね。たぶんいじめっ子たちもいじめるつもりじゃなかったと思うのよ。ただ、子供っぽい好奇心ってあるじゃない?それだけなのよ。ーーーーこれって人が乗っても浮くんだろうか?ってね。そこで白羽の矢が立ったのが体も小さめだったひかりよ。ひかりもひかりでボーッとしてる子だからね、あまり嫌がりもせず一緒に遊んでくれてると思って楽しくなってその草舟にのったのよ。そしてみんなで一生懸命押したわ。すると池の岸から離れて、ちゃんとひかりを乗せたまま浮いたのよ。それは子供たちだからみんなわーっ!とはしゃいでみんなで成し遂げた達成感があったわね。でもひかりはその段階ですこし怖くなったみたいで、なんだか笑いながらも不安な顔をしてたのをしっかり覚えているわ。
その次の瞬間、春風が吹いたの。ビュオォーー!って。すると小さな子供を乗せた草の舟はあっというまに池の真ん中の方まで流されていって、周りの子供たちもみんな止めようと必死だったのだけれど、もう子供にはどうすることもできなかったわね。ひかりを乗せた舟は一気に小さなお人形さんくらいの大きさになったのよ。ひかりは泣いてなかったわ。遠目だけど、どこか寂しそうな顔をしていたと思う。子供たちは焦ったわね。そういう時子供ってどうすると思う?かくれんぼでどうしても見つからない子供がいた時にどうする?あなたにも経験ない?『見て見ぬふりをしてなかったことにして帰るのよ。』子供たちは自分たちがしてしまったこと、それがバレたら大人に怒られることを知ってるからなかったことにするのよね。みんな池の中腹に浮かぶひかりをそのままにして帰ったのよ。
信じられないって顔してるわね。でも子供って本当にそういうものよ。次の日になれば何事もなかったかのようにリセットされて、ひかりは学校に普通にいて、またみんなで些細ないじめをするの。そう思っていたわ。でも違った。ひかりは学校に来なかったの。次の日も次の日もその次の日も。結局卒業式までひかりは学校には来なかったわ。
でも不思議よね。普通子供が一人いなくなったらひかりの両親や大人たちや先生や警察が騒ぐはずなのに。まったくそういう気配がなかったのよ。ひかりは消えたの。この世界から。

「これで私の話はおわりよ。この後も何もなかったわ。」
「.....。」
僕は何も言えなかった。楓が冗談を言っているようにも見えなかったし、かと言って何と言っていいのかもわからなかった。エイプリルフールもおわってる。
「私はひかりをなんとしてでも助けるべきだった。すぐに家に帰って親に助けてもらうべきだった。いいえ違うわね、本当にするべきだったのはひかりを草舟に乗せるのを何としてでも止めるべきだったのよ。でもそれができなかった。」
「.....。」
「春になるとひかりのさびしそうな顔を思い出すのよ。」
そう言い終えると楓は席を立ってスタスタと歩いて行ってしまった。
僕は追うことができなかった。
最期の希望

なんとなく芥川龍之介が自殺した35歳までに自分は死ぬものだと思っていた。でも歳をとるにつれて、死ぬことに対する恐怖感や、それなりに守りたいものが出来てきて死に対する忌避感が強くなった。僕は芥川龍之介のようにぼんやりとした不安だけでは死ねないのだ。
高校生の頃に近所の同級生の女の子は自殺した。彼女がどうして、何を思って死を選んだのかは僕には全くわからない。
小学生の時に同級生の父親が自殺した。彼が何を思って死を選んだのかも僕には全くわからない。
でも、彼らの気持ちの2割くらいは理解ができる気がする。
きっと彼らは追い詰められたわけでもなく、絶望したわけでもないのだ。彼らはきっとここに居続けることがイヤになってしまっただけにすぎないのだ。自分という存在をここに残し続けることに対してイヤになってしまったのだ。
僕はまたこうも思う、彼らは100%不幸な人生と不幸な終わり方だったのだろうか?いや、彼らはきっと死ぬ間際にほんの少しであれ希望を見出したはずだ。もちろんその希望というのは生きていくための希望ではなく、死んだ先の希望。自分がゼロになることへの希望、あの世への希望、天国への希望。
それらの希望を否定することは誰にも出来ないし、また僕はしてはいけないことだなと直感的に思う。
もちろん遺された人たちは悲しんだり、迷惑を被ったりするだろう。でも、彼らは彼らなりに理にかなって死への道を選んだのではないかと思うのである。誰にも否定する権利はない。

そんなことをぼんやりと思いながら生きるか死ぬかの狭間で生きてきたような気がする。
そんな時に出会った女の子の話をする。
彼女と初めて出会ったのは公園の直ぐそばの道端だった。小学生か中学生かわからない年頃の女の子だった。僕は不思議に思う。なぜ彼女は公園に入らずに、すぐそばの道端にずっといるのだろうと。公園に行けばベンチもあるし、水飲み場もあるし、なんなら遊具もある。自分のような大の男が遊具で一人で遊んでいたら頭のおかしな人と思われそうだが、この子は小学生かせいぜい中学生の女の子だ。堂々と遊ぶべき正当な年齢である。
彼女はずっと公園を眺めていた。僕は不思議に思い、ふと魔が差したのか、少女に声をかけてしまった。「やあ、どうして公園の中で遊ばないの?」
彼女は少し驚いた様子で一呼吸おきながら答える。「私は入れないのよ。」僕は少し理解が追いつかなかったが何とか会話を続ける。「なんで公園に入れないんだい?すぐそこだろう。仲の悪い友達でもいるのかい?それとも親に禁止されているのかい?」
「そうじゃないの。私はあの公園には入ることができないのよ。」彼女はハッキリとそう言った。
僕はやっぱり理解ができなかった。「とりあえず今はもう暗いし、こんなところに一人でいるのは危ないんじゃないかな」言ったところで気がつく。そう、今は夜の11時だった。そもそもこんな時間に小学生とも中学生ともわからない女の子が外にいる方がおかしい。保護して警察に連れて行くのが大人として正解なのかもしれないけれど、僕はたまたままともな大人ではなかった。でも心配だ。
「どうしてこんな時間にこんなところにいるの?おうちはどこにあるの?」不審者じみた質問をしてしまったかなと思ったが女の子は全く気にしていないようだった。「私のおうちはもうないのよ。」え?「私のおうちは火事でなくなっちゃって。」え?え?どういうこと?「どういうこと?」「お母さんが包丁を取り出して私たちをグチャグチャに刺して、そのまま家に火をつけて全部焼けちゃったの。」そうか、つまりこの子はオバケだったわけか。なるほど。こわ。でも僕はあいにくまともな大人ではなかったのでオバケを信じている肯定派だから全然平気で答える。「お母さんはどうしたの?」「お母さんはそのまま消えちゃったわ。何もこの世に未練なんてなかったんでしょうね。残ったのは私だけ。妹もお父さんも消えたわ。たぶん成仏したのね。」ずいぶん自分勝手な一家だなぁ。
「君の話はわかったし概ね信じるよ。でも、じゃあなんで公園のそばにずっと立ち尽くしているんだい?」女の子は答えづらそうに言う。「私実はあの公園で思い切り遊んだことがなくて。体が弱かったからお母さんに禁止されてて、ほとんど入ったこともなかったの。だから一度思いっきり遊んでみたかったのかしらね。」僕は間髪入れずに答える。「なんだそれなら僕と心行くまで遊ぼうよ。どうせ暇なんだ。仕事もクビになって恋人に振られて友達もいなくなったし。」「そこまで聞いてないけど。」女の子はちょっと引いたみたいだった。「でもいいわ、おじちゃんと遊ぶわ。」よかった。「私の手を引いて公園に入ってくれたら私も一緒に入れると思うの。お願い。」「もちろん。」僕は女の子と手を繋いで公園に入って行く。女の子の手は冷たい。でもなぜかとても温かく感じる。
僕たちは1時間くらい公園の遊具という遊具で遊ぶ。側から見たら女の子はオバケなわけだから僕は一人で遊具で遊んで一人で虚空に向かって楽しそうに喋りかける気味の悪い不審者なわけだが、幸い警察も来なかったので童心に戻って女の子と遊び倒した。
「私もう行くわ。」遊び疲れてけらけら談笑していると途中で急に女の子がそんなことを言い出す。そうか、もう満足したのか。僕は寂しいけれど、なんとなく悟った。「さよならおじちゃん。私これで思い残すことはもうないみたい。最後にたくさん遊べて素敵な人にも出会えてよかったわ。もし生まれ変わったらまた出会いましょう。約束よ。」そう言うと女の子は漫画みたいにスーッと消えてしまった。
不思議な体験をしたなぁ、でも喜んでもらえてよかった。それに僕自身もとても楽しかった。ふぅ。そう思った瞬間ふわっと体が浮いた。そして全てを思い出した。そう、僕はこの公園のそばの踏み切りで身を投げて死んだんだった。
そうか、僕も寂しかったのかもしれないな。そう思って、女の子の最期の言葉を思い出す。「生まれ変わったらまた出会いましょう。約束よ。」うん、きっとかならず。
僕は幸せに包まれて天に昇って行く。
生まれ変わりがあるのかなんて僕にはわからない。この先にあるのはただの無かもしれない。
でも少なくとも僕が死んだ時に望んでいたのは何もない無であり、終わりだった。ピリオド。
でも、あの幽霊の女の子に会うことによって僕はほんの少しの希望を持っていくことができる。
「今までの人生もまんざら無駄じゃなかったかな」そう思いながら僕の意識は消えていった。

小学生の時に「二十歳になった自分へ」向けて書いた手紙が届いた。
僕はその手紙をどうしても開くことができなかった。
手紙の内容はほとんど覚えていないが、きっと将来への期待や子供なりにマセて考えた渾身のギャグやその当時の友達のことが書いてあるに違いない。
でも今の僕にその手紙を読む資格はあるだろうか。友達もほとんどおらず、定職にも付かず、大半の日々を部屋の中で過ごすだけの今の僕にその資格はない。というよりも、きっと読んだら小学生の頃の自分に申し訳なくなってしまう気がするのだ。
あの頃夢に描いていた将来ってなんだったかな。たしか社長とかお笑い芸人とかそんなのだと思う。他愛のない子供の夢だ。しかも夢なんてないのに無理矢理先生に決めさせられたような夢。
今思えば残酷な企画をするものだなと思う。誰しもがかならず夢を叶えたり、叶えられなくとも人並みの人生を送っていることなんて確約できないのではないか。夢破れたり、人に自慢できるような人生を送っていない人間に子供の頃の夢いっぱいの手紙を届けるなんて、とても残酷だと思う。
僕はそんなことを考えながら汚い字で書かれた手紙の封筒を眺めていた。
あの頃はたくさんの友達に囲まれて毎日が楽しくて、結局言えずじまいだったけれど好きな女の子もいて、ささやかだけど毎日が幸せだったと思う。
今の自分には恥しかない。どうしてこんなことになったのか一つ一つは些細だったと思う。でも結果として恥しか残らない人生になってしまった。誰にも誇れない人生。
なんで生きてるのか、なんで生まれてきたのかわからなくなる時がある。
この手紙がなんだか憎い。でも破いて捨ててしまおうという気持ちがわかないのはなぜだろう。それはきっとあのキラキラしていた子供時代の自分すら否定してしまうことになるからだ。それだけはしたくない。

僕はまた手紙を書こうと思う。「二十年後の自分へ」
二十年後の僕が幸せなのか不幸せなのか、それとももうこの世にいないかはわからない。でもこの時に感じたこと、今の自分の気持ちを未来の自分へ向けて書けばきっと素直な気持ちでありのままを吐き出せる気がした。
二十年後の僕はこの手紙を受け取った時に封を開くだろうか?きっと開かない。でもそれでいいのかもしれない。誰にも届かない一方通行の手紙があってもいいはずだ。手紙の中に想いだけは残ると信じて僕は一生懸命手紙を書く。
ある日朝起きると自分の目の前に人一人分くらいの球体がドーンとできた。
さわれもしないし、押しのけることもできない丸くて透明な球体が突然現れたのだ。
最初は驚いたが、どうやらこの球体は物には一切干渉せずに普通に歯を磨いたり、顔を洗ったりすることができるようだった。
僕は不思議に思いながらも学校に行って友達に見せようとすると、どうやらほかの人もこの透明な球体にはさわることができないようで、つまり僕の目の前は1メートルくらいの空間が空いてしまうのだった。
「なんだこれ?おまえ心当たりとかないの?」そう友達に聞かれたところでもちろん僕に何か心当たりがあるわけもなく、ただただ不思議なこともあるものだなぁくらいに思っていた。
この球体はどうも人間だけがさわれず、入れないもののようだった。物や動物や機械には全く問題なくさわれるし入れるので、生活に不便はないのだ。むしろそれどころか、利点さえある。電車に乗るときにどうしても目の前に空間が開くので痴漢に間違えられる心配がなくなった。僕は痴漢とは一切無縁な人間になったのだ。
しかしひとつだけ困ったことがある。A子である。A子とはつまり僕の恋人であり、世界一大切な女の子。このままだとA子と二度とキスとか色々できないではないか。そう思うとたまらなく不安になった。僕はこのまま一生A子とは触れ合えずに歳をとっておじいちゃんになって最終的にアパートの一室で孤独死して、それでも僕の目の前には空間が空いたまま誰にも触れられずに腐っていき、そのアパートは事故物件として扱われ、大家さんにも迷惑がかかり僕は人々に疎まれながら家ごと腐っていくしかないのだろうか。
いやそんなことはどうでもいい、まずはとりあえず直近の問題としてA子に触れたいじゃないか。あのやわらかい肌やすべすべした手を触りたい。
僕は怖くなって1週間ほどA子からのメールも電話も全部無視して会うこともしなかった。
もしこの空間のことがA子にバレたら嫌われはしないまでも最終的にフラれて孤独死コース一直線だと思ったのだ。
しかし、そうやって避け続けていたらある夜急にA子がアパートのドアホンに映っていた。
「もしもし?Tくん?いるんでしょ?入るよ。」かちゃかちゃガチャリ
しまった部屋の合鍵をA子に渡していたのだった。
僕は焦って部屋の中にあるドアを手で引っ張ってA子が入ってこれないようにがんばった。
「Tくんなにしてるの?おふざけもいい加減にしてよね。私に会いたくないの?」
「そんなことあるわけないだろ。ただ僕は君には言えない事情があって今君とは会えないんだ。だからこのまま帰ってくれ。」
「私に言えない事情ってなによ。そんなことはどうでもいいからここ開けなさいよ。どうせ手で押さえてるだけなんでしょ。」
ぎくり
「いやでも本当に今は無理なんだ。これは最悪僕の孤独死につながることでもある。」
「なにわけのわからないこと言ってるのよ。いい加減にしないとこのアパートに火をつけてでもあなたをこの部屋から出すわ。」
孤独死もいやだけど焼死もいやだなぁ、なんて考えているうちにドーンとドアが蹴破られた。A子って結構力があるんだな。女の子はこういう時の力はすごい。あんな細い腕や脚のどこにこんな力が隠されているんだろう。まるでカブトムシの脚みたいだ。なんて頭にA子とカブトムシの合体したような姿を思い浮かべているとA子に手を握られて、そのあとすぐに抱きしめられた。
「え、なんでさわれるの?」
「なんのことよ、さっぱり意味がわからないわ。」
A子は少し涙声だった。

つまりこの球体は僕の心の距離であり、他人との接触を無意識に拒む僕が生み出したものだったようだ。しかしA子だけは簡単につきやぶって僕の心に触れて抱きしめてくれた。
これからも僕の目の前の球体はなくなることがないだろう。でも僕の大切な人だけがこの球体に入り込んでくれるなら、それはそれでいいのかもしれない。
死ぬために生きているときがあった。
私は二年間付き合っていた男にフラれ死ぬことを決意した。
人から見たらバカバカしいとか、新しい恋人を見つければいいとか、男なんていくらでもいるとか、恋愛だけが人生じゃないとか、そういう事を思うかもしれないが、私にとっては「すべて」だったのだ。
今考えると彼のことがもう死にたくなるくらい好き!ということだったわけでもなく、恋人がいる、パートナーが存在する、自分を愛してくれる人がいる、自分を見てくれる人がいるということが重要であり、彼でなくてはいけない理由なんてどこにもなかったようにも思える。
それでも私は全力で彼を愛していたし、愛されようと努力していた。
あまり得意でない化粧だって彼好みに合わせて薄くて見栄えのいいようなナチュラルメイクを練習したし、見た目にあまり変化はなかったけどダイエットだって一応していた。女子力の塊だ。
彼はいつも優しかったし、顔はかっこいいとは言えないけど愛嬌があったし、疲れてる時はちょっと不機嫌で当たられる事はあったけど概ね理想的な恋人だったと思う。

そんな彼に浮気を告げられて、その女との関係の方が本気だから別れてほしいと切り出された時は我を忘れて取り乱した。きっと何発も殴って顔にも5発くらいキックした。あんまり覚えてないけど。
私は浮気なんてしてなかったし彼一筋だったから一人になってしまう。でも彼は私を捨ててすぐに新しい恋人と幸せな関係が続いていく。
不誠実な方が得をする事なんて人間世界にあっていいのか?私は別れた直後は壁に頭をぶつけながらそればかり考えていた。彼の幸せそうな現在を想像したりもして、また壁に頭をぶつけた。
怒り、悲しみ、絶望、怒り、怒り、怒り。
本当に許せなくなった私は一ヶ月も壁に頭をぶつけたところで彼を殺しに行くことにした。
彼を殺して私も死ぬ、なんて安っぽいんだろう、昼にやってる主婦とニートしか見てないメロドラマみたいだ。私も見てるけど。というか
、彼にフラれてからというもの家から出てないのでテレビくらいしか見ていないのだ。昼ドラはおもしろい。昼ドラに影響されたことは否定できない。
彼を殺そう、そして勇気があったら私も死のう。そうすることで私たちは永遠にあの世で結ばれるのだ。今考えるとフラれてるんだから、あの世に行ったところで彼は私のことなんて見向きもしてくれないだろうし、むしろ殺人犯なんて気持ち悪がるだろう。でもとにかくその時はそう思ったのだ。恋は盲目であり乙女は純情なのだ。

私は彼に返し忘れたものがあると言って港に呼び出し包丁でひと突き、そのまま用意してあったノコギリで彼をバラバラにしてそれぞれゴミ袋に入れて、これまた用意してあった砂袋に括り付けて海に落とした。
金田一少年とコナンを読んでいたおかげでこの手の作業はお手の物なのだ。
彼に別れを告げ自分も死のうと思ったが、やはり怖くて死ねないのでやめることにした。死というのは恐ろしい。

数日後枕元に彼が現れた。バラバラの彼は首と手だけの状態で出てきた。死んだ時の状態でオバケになるんだなぁなんて思いながらぼーっと見てると、彼はやさしく微笑んできた。
寝ぼけ眼だった私もさすがに気味が悪くなってきたので目覚まし時計を投げつけると彼はスーッと消えていった。
それから一ヶ月毎日のようにそんなことを繰り返した。
彼が何を言いたいのかサッパリわからないが、これだけ毎日枕元に出るということは何か言いたいことがあるのは間違いないだろう。しかしグロい幽霊となった彼に話せる口などなくただ微笑んでいるだけなのだ。

しかし一ヶ月も経つとグロい彼の幽霊は全く姿を見せなくなってしまった。最初は気味が悪かった私だが、一度は愛した男だ。彼がそばにいてくれたことでいつの間にか安心感を得るようになっていた。その事に気付いたのは彼が消えてからである。

さびしい。

私は心からそう思った。結局のところ彼がそばにいてくれる、それが大事なことだったのだ。私はそんな単純なことに気づかずに彼を殺してバラバラにして海に沈めてしまった。そしてその後出てきた幽霊の彼にも目覚まし時計を投げつけてしまった。それも毎日のように。
私は二度と彼に会えなくなった事を悟ると死ぬことに決めた。
またもう一度会えるといいな。
「私は猫が好き」
彼女はそんな話をしはじめた。
「私は猫が好きよ。自由に生きて、好きな時に外に出て行って日向ぼっこをして、おなかが減ったら帰ってきてエサを食べるの。そして昼寝をして、猫って一日の三分の二を寝て過ごすのよね。甘えたい時に甘えたいだけ甘えて、甘えたくない時はつんつんと人から逃げて回って、そしてまた寝るのよ。そんな猫が私は好き。」
彼女は生まれつき体が弱く病院から出られない。
「私は猫になりたいわ。」
「なれるよ。少なくとも僕に好きな時に甘えることはできる。それにたくさん眠れる。」
「私は寝たくて寝てるわけじゃないのよSくん。」
僕を嗜めるように少し頬を膨らませて言った。

そんな他愛もない話をした一ヶ月後に彼女はこの世から去っていった。
医者が言うには、もともと弱い体にバイキンが入ったことが原因で肺を患ってそのまま死んでしまったそうだ。
僕は不思議と涙は出なかった。
大切な人が死んだ時に涙が出ない時人間はどうすればいいのだろうか。
人間は涙を流すことで悲しい気持ちを発散できるように出来ている。でも僕は彼女の死という事実を突きつけられた時、悲しかったけれどただただ呆然と立ち尽くすしかなかったのである。悲しみは僕の体の中を巡って巡って回るだけ回ってどこへ消えていくのだろう。そんなことを考えてふとむなしくなった。僕は寂しかったのだ。もう一度会いたかったのだ。
そんなことをぼんやりと考えて彼女の葬式が終わり火葬されて骨になった彼女を見た時僕は悲しみとは別の何か不安のようなものに駆られた。
気づくと彼女の骨の欠片をひとつポケットにしまっていた。
彼女の親族はもしかしたら誰か気づいたかもしれないが、きっと恋人である僕の心境を察してか誰も何も言わなかった。

僕はペットショップで猫を買った。
できるだけ愛嬌のあるアメリカンショートヘアのメスだ。彼女も体は弱かったけれどいつも愛嬌たっぷりで僕を和ませてくれた。そんな面影を感じつつ猫を連れて帰った。
僕は彼女と同じ名前をつけたその猫を抱きしめて泣いた。自分でも驚いた。彼女が死んでから今まで一度たりとも一人でいるときも泣いたことはなかったのだ。きっと猫を抱きしめることで安心して心の壁が崩壊したのだろう。
ひとしきり泣いた後、僕は彼女の骨の欠片をトンカチで砕いて粉にした。そして仔猫の飲むミルクに混ぜた。彼女と同じ名前のついた仔猫は美味しそうに彼女の骨の欠片の入ったミルクを舐めている。

端から見たら狂気の沙汰だろう。
でも僕は決して狂ってなどいなかったし、まともな常識を持つ人間だと思う。
何故そんなことをしたのか?僕はきっと彼女の夢を少しでも叶えてあげたかったんだと思う。そんなことで彼女の魂が猫に憑依して突然彼女の声でしゃべり始めるなんて都合のいいライトノベルのような事は起きない事ももちろん知っている。
それでも彼女の最後に話してくれた夢を叶えてあげたくなったんだ。それで満足するのはきっと世界中でも僕だけで、そんなこと親族に知られたら怒られるだろうな。
彼女の魂が少しでも自由になれることを祈って僕はそうしたんだと思う。
彼女の名前のついた仔猫がニャァニャァと頭を擦りつけてきたので、もう一度抱いた。
僕はぬくもりを感じながら、もう一度泣いた。
「本は人生の縮図である」とは誰の言葉だったか。
ある男が絵本を読んでいる。
もうかれこれ三ヶ月くらいになるだろうか。その男は図書館の絵本コーナーで同じ絵本を読み続けていた。
身なりは整っていてスーツを着ている。
最近は大人が絵本を読むのも不思議なことではなくなってきたが、それにしても三ヶ月も同じ絵本を読んでいる光景はやはり異常であった。
私は図書館で司書として働いているので、いつもその男が目にとまっていた。
ある日男が帰ったあと、その絵本を読んでみたが特に他愛もない話だった。
だいたい要約するとこうだ。
学校でひとりぼっちだった女の子が、ある時ひな祭り人形の飾りの下に異世界への入り口を見つけて入り込む。するとそこは動物が話をしたり食べ物が話をしたりするやさしげな世界で、女の子はそこでずっとずっと幸せに暮らすという話だった。
本当に他愛もない、どこにでもありそうな絵本である。ただその本はあまり出回っていないからなのか貸し出し禁止コーナーに置いてあった。だから男は毎日通っていたのだろう。

なぜこの本を男が熱心に読むのか、私は気になって仕方なくなってしまった。
勇気を持って話しかけてみることにした。
「あの・・・この絵本お好きなんですね。」
「えっ、あっ、はい・・・この本には少し思い入れがありまして。すみません迷惑でしたよね。」
とても物腰の柔らかい感じのいい人だった。
「あっ!いえいえ、ここは図書館ですから誰がどういう形で本を読もうと自由ですよ!ただ毎日図書館に来られてその絵本を読んでいるようなので、何か理由でもあるのかなと思って。」
「いや、たいしたことではないんです。人様に言うようなことでは・・・。」
その時はそれ以上何も言おうとはしなかった。
しかし何かあるなと思った私は暇を見つけては男に話しかけるようになっていた。
だんだん打ち解けて話すようになり、自分の好きな本や男の好きな本などの話をするようになっていた。

一ヶ月くらい経ったある日男はふと話し始めた。
「実は、この絵本には娘が閉じ込められているんです。」
え?娘?いままでにした雑談の中で男に娘がいるという話もなかったし、そもそも本に閉じ込められるとはどういうことだろう。
「え?娘さんですか?」
私はどう答えていいのかわからずトンチンカンなことを言ってしまった。
「はい、娘です。小学四年生の娘でした。」
男は続ける。
「娘は学校でいじめられていました。いじめられてるとは言っても直接的に暴力を振るわれたり、何かされるというわけではなくて、なんとなく孤立化していたのです。娘は昔から絵本が好きで物静かな女の子だったので、そういうところで周りから浮いてしまっていたのかもしれません。しかし私がその事に気付いたのはいなくなってからようやくでした。父と子二人だけの家庭だったので、娘になんとかいい暮らしをさせてあげようと仕事に夢中になるあまり娘のことはあまり構ってあげられていませんでした。今考えればとても愚かなことです。娘が真に欲しかったのはきっとお金の豊かないい暮らしではなく、学校での孤独を埋めてくれる暖かい家庭だったのでしょうから。しかし当時の私は学校で孤立化していることも、家で孤独になっていることも気付いてあげられませんでした。」
私は無言で聞き続ける。
「そんなある日のことです。娘はいなくなりました。どこにもいなくなりました。いた形跡さえなくなりました。学校の生徒や先生すら覚えていない。近所の人に聞いても覚えていない。誰一人として娘のことを覚えていませんでした。ただ、私ははっきりと覚えているのです。このつらさがわかるでしょうか。あなたは娘が本当は最初からいなくて頭のおかしな私の妄想だと考えているかもしれません。しかし娘はちゃんといたんです。私の記憶にははっきりと娘との思い出が残っているんです。」
何も言えなかった。ただこの人が嘘をついているとも思えなかった。そんな不思議な話を男は続ける。
「私は仕事を辞め娘を探すことにしました。警察に言ってももちろんそんな人間は存在しないので探せないと断られたのです。自分で探すしかありませんでした。私は不審がられながらも娘の通っていた学校に行ってみたり、娘の通学路を辿ってみたり、娘が休日に通っていた図書館に行ってみたりしました。もうおわかりですよね。娘はこの絵本に閉じ込められていたんです。なぜ私がこの絵本を見つけ出せたのか、それはよくわかりません。ただ娘からの最後のシグナルだったのでしょうか。」
男は話し続ける。私は聞き続ける。
「私はこの絵本を毎日読むことにしました。娘はこの絵本の中で楽しそうに幸せそうに暮らしています。すると段々と私はこれでいいのかもしれないと思うようになってきたのです。娘は現実世界ではただただ孤独でした。学校でも家でも孤独だったのです。でもこの絵本の中ではたくさん友達がいて楽しそうにしている。私はそれでいいと思い始めました。娘はきっとその方が幸せなんだと思いました。ただ私はもう一度娘に会いたい。会ってしっかり抱きしめたかった。ただ愛していると伝えたかったんです。」
気付くと男は涙をこぼしていた。私にはその涙が世界中のどんなものより寂しく、美しいものに見えた。
「私の話はこれで終わりです。頭の変な人だと思われたでしょうが、これが真実です。」
私は搾り出すようになんとか言う。
「私にはあなたの話が妄想だったとは思えませんでした。私にはどうすることもできませんが気の済むまで絵本を読んでいってください。」
「ありがとうございます。」
私にはその話が本当なのか、そんな事が本当にあり得るのかさっぱりわからない。でもこの男の話は真に迫っていた。嘘をつく理由もない。そんなモヤモヤを抱えながら、その日は家に帰った。

翌日その男は来なかった。翌々日もその後一週間しても来なかった。
私はふと気になり絵本を手に取ってみた。
そこには女の子と二人、絵本の世界で幸せそうに暮らすあの男が描かれていた。
その顔は初めて見る幸せそうな顔だった。
図書館に置いてある本にはまだまだそういう本があるのかもしれないと思うと不思議な気持ちになった。
「おはようSくん。」
M実の声で目が覚めた。
彼女と共に迎える朝はこれが初めてではない。しかしそれは決していつものような心地よい目覚めではなく、何か違和感があった。
そう、右手に手錠をはめられている。よく見るとベッドの足にくくりつけられているようだ。
「え、なになに?なんの悪ふざけだよ~!ドッキリ?はははウケる~」
僕は少し異常だと思いながらもおちゃらけて見せた。
「ごめんねSくん。これドッキリでもなんでもないのよ。」
え・・・じゃあなんだこの状況は・・・新手のプレイか何か?
「M実ちゃ~ん!ちょっと怖い!怖かった!でももうトイレとか行きたいからこれ外してもらってもいいよね~?」
「ダメよ。トイレはちょっと我慢してね。」
ちょっと・・・ってことはすぐに解放されるのだろうか。
そもそもなんでこんな事になっているんだろう。浮気がバレたとか?いやいやいや、浮気なんて一度もしたことないし、勘違いされるようなこともしてないし、そもそも携帯電話にロックすらかけてないぞ!それはM実もよく知ってるはずだ。
「Sくん気分はどう?」
「こうして右手が繋がれてること以外は快眠したし元気いっぱいだよ。いい加減悪ふざけはやめようよ!」
「あら、それはよかったわ。」
僕の話の二文目なんて全く耳に入ってないようだった。
「ところで気分がいいところ悪いけど、実は私あなたに毒を飲ませちゃったのよ。あ、心配しないで!毒とは言ってもちゃんとカプセルに入れておいたから1日くらいは持つはずよ。たぶん。」
たぶん・・・。え、毒飲まされちゃってるの僕?!
「毒ってなんだよ!悪ふざけにも限度があるぞ!」
「毒はね、洗剤とかゴキブリの薬とか殺虫剤を適当にネットで調べて混ぜただけだから不安だけど、きっと死ぬわね。死ななくてもまぁ結構ヤバイんじゃないかしら。ちなみに悪ふざけじゃないわよ。」
目がマジだった。マジだ、この女。僕はようやく本能的にヤバイと感じた。
なんなんだ、そもそもこんなことをM実がする理由が全くわからない。昨日まで仲良くしてたじゃないか!付き合って一年くらいになるけどケンカしたこともなかったのに!
たまに感情的になるところのある女だとは思ってたけど、ここまでするような女でないことは僕が一番よく知っている。というか、普通そんなヤバイ女とは付き合わない。
いくら考えてもここまでされる理由がない。
「なんでこんなことをするんだよ!」
「私ね、実はあなたに隠し事があるの。」
隠し事・・・デキちゃったとか?いやいやそんなはずはない。そもそもデキちゃって殺される理由がない。

「あなた三年前の今の時期なにしてたか覚えてる?」
「三年前・・・?そんな昔のこと覚えてないな。とりあえず解毒剤をくれよ!」
「いやよ。全部思い出したら考えてあげる。」
「・・・。」
「三年前のクリスマスの日よ。よく思い出してみて。」
三年前のクリスマス・・・その頃はK子と付き合ってたな。あの日も確かK子とデートしてて・・・ん。なぜ三年前のことなんて聞くんだ?
「あなた覚えてるはずよ。忘れるわけないもの。」
「いや待てよ!三年前のことなんて関係ないだろ!キミと出会ったのは一年前だし、そんな昔のことはどうでもいいじゃないか。今僕はキミのことを本当に愛してる。それじゃダメなのか?」
「ダメね。私にとってもあなたにとってもとても重要なことだから。」
「・・・。」
「私はあの時高校生だったわ。家族でクリスマスパーティのために少しいいレストランに行って食事をして、雪の降る中帰ってたのよ。」
「それが今なんの関係があるんだよ。」
僕の話など聞かずにM実は続ける。
「少しくらい夜道でね、街灯もあまりなくて、そう、あそこは交差点だったわ。私と私の家族を乗せた車は青信号だったから直進していたの。するとガーンってショックを受けてすぐにボンヤリして、目が覚めたら知らない天井の病院のベッドの中ってわけ。よくある交通事故ね。」
「そんな話いままで聞いたことなかったぞ。もっと早く話してくれればよかったのに。」
僕の話が耳に届いているのか届いていないのか、よくわらかないままM実は続ける。
「私運が良かったのね。ほとんどかすり傷と打撲程度でたいしたことなかったのよ。でも、家族はそうはいかなかった。お母さんと妹は即死、お父さんは半身不随で今も入院しているわ。」
「そんな事もっと早く言ってくれたら力になったのに!」
「私ね、事故が起きて気を失う前に見ちゃったのよ。向こうのドライバーの顔。」
「・・・。」
「もう思い出してるわよね。あなたよ。あなた幸せそうに女の子とドライブしてた。今でもあの時の二人の幸せそうな顔が脳裏に焼き付いて離れないわ。きっと彼女との会話に夢中で余所見をして赤信号に気づかずに私達家族の乗った車にぶつかってきた。そしてあなた達はエアバッグで助かったのね。」
そう、三年前のクリスマスのことは忘れた事がない。ささいな不注意で赤信号を無視して車に突っ込んだのだ。そして怖くなってK子に言われるがままその場を立ち去った。その相手がM実だったなんて・・・。
「一年前に街でたまたまあなたを見かけた時は驚いた。気付いたら声をかけていたわね。そこから先はどんな復讐をしようか考える日々だったわ。こう言うとドス黒い気分なんじゃないかと思われるかもしれないけど、案外楽しかったわよ。復讐って楽しいものね。」

「ど、どうすれば許してもらえるんだ。僕はまだ死にたくない。あの事故の事は本当に悪かったと思っている。助けてくれたらそのまま警察に自首しに行くよ・・・。これで許してもらえるとは思えないけれど、それでも自首して罪を償うつもりだ。本当にすまなかった。それと、この一年間僕はキミの気持ちもわからずに過ごしていたわけだけど、愛していた事は本当だし今でもキミの事を愛している。もし今解毒剤をくれたら自首する、そして刑期が終わったらまた僕と一からやり直してくれないかな・・・?」
「・・・。」
「キミにとっては復讐の相手でしかなかったかもしれないけど、僕にとってキミはかけがえのない存在なんだよ。キミへの愛に嘘偽りはない、全部本当だ。愛してる。」
「・・・わかったわ。私もあなたと過ごした一年間であなたがすごくいい人だと気づいてから本当に愛するようになっていたのかもしれない。それを隠して復讐という目的で盲目になっていたのかもしれないわね。」
「・・・。」
「これが解毒剤よ、飲んで。」
なんの変哲もないカプセルだったが今の僕には仏様の垂らした蜘蛛の糸のように見えた。ごくり
「でも、ごめんなさい。あなたとやり直すのはむりよ。ここまでしちゃったんだから元には戻れない。鍵はよく探せば手の届くところに置いておいたわ。私はこの部屋から出て行くわね、後は追わないで、さようならSくん。」
バタン

M実は僕を置いてドアから出て行った。
正直ひと安心だ。今のM実はどうみても正気ではない。いなくなってくれて安心した。とりあえず鍵を探さなくては。トイレにも行けない。
30分ほど右手を塞がれた状態でベッドの付近を捜しているとゴミ箱の底に封筒と共にテープで貼り付けてあった。
とりあえず僕は手錠を外した。助かった、本当によかった。

封筒の中には手紙があった。
「Sくんへ。ネットって便利ね。毒の作り方なんて簡単に調べられちゃうんだから。一週間もあれば材料を揃えて調合するくらい簡単だったわ。それとホームセンターと薬局ってあんなに危険な薬物がたくさん置いてあるなんて驚きよね。私でも毒を作れちゃうんだからすごいことよ。ところで、毒を作るのは簡単でよかったのだけれど、解毒剤の作り方なんてなかなか見つからないものね。あなたと交渉するためには解毒剤も必要かなーと思って結局三時間くらい必死で調べたけど、どこにも載ってなかったのよね。そもそもその毒ってネットのレシピに私が適当にアレンジしてあるから解毒剤なんて作れないんじゃないかしら。あと毒のカプセルも解毒剤のカプセルも薬局で売ってる市販のカプセルだから多分一日も持たないんじゃないかしら。まぁそもそも私あなたを許すつもりなんて微塵もないからいいざまね。私は捕まるのいやだから逃げるけど、後を追わないでね。さようならSくん。」
僕は小説を書く。絞り出すように、感情から溢れるものを受け止めるように。
15歳の思春期の時になんとなく憧れて書き始めた物語、それから15年間なにかが心に溜まったとき、心が病んだとき、心がワクワクしたとき、ただ話をつくって形にしてきた。
今はどうだろう。今までの僕は自分のためだけに小説を書いてきた気がする。
今の僕はY子に語り聞かせるために物語を作っている。

Y子は病室で意識もなくずっと眠っている。一年間ずっと。醒めることのない夢を見続けている。
決して体の弱い方ではなかった彼女がなぜこんなことになったのか僕にはわからない。
ある日突然その日はやってきて、神様は無慈悲に僕から遠ざけてしまった。
原因はわからない。とにかく彼女はただただ一年間眠り続けているのだ。夢を見ているのだ。
最初の三ヶ月僕は途方に暮れた。
付き合っていたわけではないが、よく仲良くしてくれたY子のことが好きで好きでたまらなく愛しているんだと気付いたのはY子が眠りについてからだった。いや、きっともっと前から好きだったのに自分で自分の気持ちを押し殺していたのだ。
僕はY子のことを愛していた。

彼女が長い眠りについてから僕はほぼ毎日欠かさずに病室に通った。
脳にはなにもなく、本当にただ眠り続けているだけだという彼女の顔は本当に健康そのもので、夜中にでも起きてきて遊び回っているのではないかと思うくらいだった。
今にも起き上がって、起きていた頃の愛くるしい笑顔を見せてくれるのではないかと期待してしまうほどにただ寝ているだけだった。

徒歩に暮れた三ヶ月が過ぎたとき僕は一つのアイデアを思いついた。
Y子が眠っているなら、夢を見ているのなら、僕が物語を読み聞かせることで彼女の夢に僕を刻み付けることが出来るのではないか、ということ。
僕は十五年間誰にも見せずにひそかに書き綴ってきた物語を眠っているY子に読み聞かせた。
毎日読むほど書き綴っていたわけもないので、すぐに尽きてしまったが、そこから先はその日の気分で好きな物語をY子に読み聞かせることにした。
自分で自分の書いた物語を読み返すということはしない方だったので、それこそ最初は照れくさかった。
しかし、次第に自分の物語を読み続けることで懺悔や免罪にも似た気分になってきた。
自分の心から溢れたもの、自分の心が悲しいときに出たもの、無理矢理にでも絞り出して書いたもの、それを書いたときの自分自身の人生を告白するようなつもりで僕は読み聞かせるようになっていた。
さながらY子は告白を受ける牧師様のようだだった。

それが三ヶ月ほど続くと流石に自分でも飽きてきたので僕は新しい物語を書くことにした。
書いて書いて書いて書きまくる・・・というほどの事が出来れば苦労しないわけで、必死にもがきながら何とか物語をつくった。
新作を読み聞かせるときの僕は、やっぱりまた照れくさくて上手に読むことが出来なかった。
その照れくささがなくなって免罪されていくとともに、また新作を書く。
そんな日が続く。
この頃になると僕が書く話は大抵死とか愛とかそんな恥ずかしいものばかりになっていた。
他人には絶対に読ませられないような内容だ。しかもつたない。
それでも僕は物怖じもせずY子のために、新しい物語を書き続けた。
Y子が起きる保証もなにもないのに。
この頃になって僕の話が死についての話が多くなってきたのは、もしかしたら心の奥底でY子にはこのまま安らかに天国に行ってもらいたいという願望があったのかもしれない。自分では否定しても物語には出てしまっていたのかもしれない。つまり僕は諦めかけていたのだ。

その時は唐突にやってきた。「今日は新作の物語ができたよー」等と独り言なのか話しかけるのかよくわからない前置きをしながら話し始めようとした時、僕は目を疑った。
そこには春の風にそよがれてベットの上に座っているY子がいたのだ。
一年間も眠っていたのにまったく衰弱した様子のないY子は、あのひたすら底抜けに愛くるしい笑顔で僕に言った。
「おはようN君、今日はどんな物語を聞かせてくれるのかな?」
僕は涙を浮かべながら新作を読み聞かせるだろう。そして今度こそちゃんと告白するのだ。今度は愛の告白を。
春の暖かい風がY子の髪を揺らしていた。
「ダメだ・・・全然なにも出てこない・・・こんなことなら・・・こんなことなら、もっとよく勉強しておくべきだった・・・!」
僕は受験会場で激しく後悔した。
そして夏。・・・夏?そこは夏だった。
受験勉強もほどほどになんとなく遊んでしまった三年生の夏に戻っていた。
こういうのなんて言うんだっけ?タイムワープ?タイムリープ?
僕は驚くよりも先に安堵していた。
「これでもっと勉強できる・・・!」
なぜタイムリープ出来たのかはこの際置いておこう。きっと神様が僕に合格せよとタイムリープさせてくれたに違いない。運命なのだ。
僕は今度こそなんの隙もないように受験に向けて勉強した。勉強しまくった。
幸い試験の問題もある程度記憶に残っていたので、重点的に効率よく勉強することが出来た。
半年後、再び受験の日がやってきた。
「わかる・・・よくわかるぞ!ここは半年前にやったところだ!」
僕はスラスラと問題を解いていった。
これなら満点も夢じゃない。

合格発表の日、掲示板が掲げられる。
受験者数564人、一位564人、定員オーバーのため再試験。
なんとあの会場にいた者全員がタイムリープしていた!
神様はみな平等に願いを叶えてくれてしまったのだった。
神様も受験も平等だから意味があるんだと思いつつ何か腑に落ちなかった。