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■体当たり英語勉強と試練の道Transilica社でのもうひとつの関門は英語だ。入社に際して「ウチは外資系だけど英語できる?」と痛い所を突っ込まれたが「英語は出来ませんが、回路設計と徹夜は出来ます」と答えて入社が決まった
<アメリカ><転職><チップ><Micro><サーフィン>

<アメリカ>
。
とはいうものの、初めてアメリカ本社のエンジニアへ送った英語のメールの返事は「I can not understand」
<転職>
。
ハードルは高い。
そこで藤野さんは二つの英語勉強法を実行することにする。
まずひとつは、もらった英語のメールをそのまま真似して使うこと
<チップ>
。
さらに、会話でも使えるように、メールに書かれていることを繰り返し読み上げること。
もうひとつは、駅でガイジンを見たら「オレの助けを求めてる」と決め付けて話しかけること。
都内ゆえ、朝の通勤途中では必ずガイジンがいる。
見かけた人には必ず「May I help you?」と声をかけた。
もちろん、「No」と言われたことも何度もあったが、めげずに毎日これを繰り返した。
通勤時だけでなく、日本の国内出張でも欠かさず実行し続けた。
さらには、六本木で呼び込みをやっているガイジンと話し込み、店には入らずに帰ってくる、ということまでした。
こうして、少しずつ仕事に使えるレベルの英語が身についていった。
しかし、入社1年半後、本社の決定によりBluetooth事業から撤退、テレビチューナー事業だけに注力することになる。
結果、7人いた日本オフィスでは4人が会社を去った。
Bluetoothをやっていた藤野さんも本来は退職組に入るはずだったが、踏みとどまって残ることにする。
「当時、Microtuneにはまだ日本での導入実績がありませんでした。
だから、最低でも1つ日本でのプロジェクトを成功させよう、と。
決めました。
何かを成し遂げてからでないと次へは行けない、と思ったからです。
」アメリカ上陸の野望は一時封印。
とはいうもののそれも、「日本で成功実績を上げることがアメリカ行きの近道だ」と考えたからなのだが。
当時の役職はFAEだったが、自分の役割は「日本の顧客に対する技術責任者」だと考えて顧客とも本社とも接することに決めた。
自分の置かれた環境の中から最大限のことを学ぶにはこれが一番よい。
そのおかげで、導入実績をゼロからどう作り上げていくかがわかった。
サンプルを出し、他社製品と比較してもらい、必要スペックを聞き出し、本社にフィードバックしてプロトタイプを作る。
さらには、問題にならない程度に話しを少々誇張したりしながら情報を双方に伝えることで、気持ちよくエンジニアに働いてもらい、クライアントも喜ばせながら仕事を進めていく方法も理解した。
そして、1年後、努力が実ってMicrotune社製TV Tunerの日本での初採用が決まる。
■結婚、そしてサンディエゴへの転職ここで、当初の予定通り、封印していた「アメリカへの野望」を開放することにした。
アメリカでは、Transilicaの初期メンバーのほぼ全員がMicrotune社を退職し、新たにJaalaaという会社を設立していた。
顧客への出荷を見届けた藤野さんは、Jaalaaに移ったTransilica時代の知り合いに連絡し、転職を考えている旨を伝える。
すると、折りよくその時、元Transilicaの社長で、現Jaalaaの社長が日本に来ているという事で、三軒茶屋の焼き鳥屋で会うことになった。
Jaalaa社長とは数年振りの再会だったが、その場で是非来なさい、ということになり「何か書くものないか」と、社長が自分の財布の中にあったレシートを取り出し、その裏に年収とストックオプションを書いて、「San Diegoに来なさい」と言ってくれて、その場で握手を交わした。
このレシートがオファーレターだった。
「この時の場を設定し、アメリカにくるチャンスをくれた人には今でもアメリカで公私共にとてもお世話になっています」と、人と人のつながりの大切さを語る藤野さんである。
アメリカ行きの憧れが実現することになったわけだが、実は時を同じくしてソニーにこないか、という誘いもあった。
焼き鳥屋では握手したものの、その後迷いが生じる。
Transilicaに転職してから、ソニー時代の上司が「辞めてうちに来い」とずっと声をかけてくれていたのだ。
ハードの設計をする上では、やはり大企業の環境はすばらしい。
最新の設備がふんだんに使える。
技術者としての将来性を考えたらソニーのほうがよいので、とも思えた。
元の上司には、履歴書も3回添削してもらい、面接も役員面接までは大丈夫だと太鼓判を押してもらっていた。
しかし、悩んだ末、1ヵ月後、やはり当初の夢を実現しようとJaalaaへの転職を決意した。
そして、意気揚々とサンディエゴへ。
「外国人と仕事するって格好いい」と思ってから4年でアメリカ進出の野望が叶ったことになる。
アメリカ行きを契機に、数年付き合っていたガールフレンドとも結婚した。
最初の会社の後輩で、当初はひどく嫌がられていたが、周り中に「彼女が好きだ!」と言いまくり、彼女が吸っているマルボロメンソールに自分のタバコも替えてアピール。
「つきまとわないで欲しい」と振られても、あきらめずにプッシュし続けついに振り向いてもらった大事なパートナーである。
何もかも軌道に乗っている感じだ。
Jaalaaでの役職はApplication Engineerで、FAEを経て、また開発の仕事に戻ることができた。
まだ業務の一部は日本の顧客対応ではあったが、アプリケーションハードウェアのデザインにも関わるようになり、チップ開発用のFPGAボードを設計した。
入社当時の社員数は50人くらいで、うち日本人は3~4人。
Jaalaaの社員のほとんどがTransilica出身だったので「久しぶりの再会」だったが、皆から「英語がうまくなった。
前は何を言っているかわからなかったのに」といわれ、体当たりの英語勉強法が間違っていなかったことを実感する。
■サーフィンと仕事の両方に没頭する日々Jaalaaは、独自規格のショートレンジのワイヤレスチップを開発していた。
CPU、無線、そしてソフト、全部が詰まったチップが1ドルと安価なのが売りだ。
この当時の生活ぶりはかなりハードで、朝9時半から夜中の2時、3時まで働くのが普通。
一方で、サンディエゴではじめたサーフィンにも熱中、明け方家に帰っても、翌朝7時半には起きて海でサーフィンをして、それからまた出勤という生活を繰り返した。
Jaalaaには、無線、デジタルシステム、ソフト、といった他領域のエンジニアと対等にやりあいながら、アプリケーションのハードは自分が責任を持って作り上げるのが藤野さんの仕事だった。
キャリアは自分が一番下だが、ハードは全て自分の責任で、他のメンバーと対等の立場で仕事ができる。
修士や博士保持者もたくさんいたが、結果さえ出せばそんなことには関係なく同じ立場で仕事ができる。
さらに、技術のスペシャリストが社内にたくさんいたので、自分の仕事に目処がついたら余力で専門外の事を聞いて勉強した。
自分の仕事に役に立つかはまったくわからなかったが、人がやっていることを盗み見て同じことをやったりしながら自分の技能を高めていった。
そうした中、他人に口頭で聞いただけで、自分で確認せずに顧客にリリースしたソフトが動かず大問題になるという経験もあり「信じられるのは自分だけだ」とも強く思った。
「自分がリリースしたものに関しては、絶対のクオリティを保障しよう、という気になりました。
」さらに、「もっと技術の中核に近い仕事がしたい」という思いも強まっていった。
アメリカに来た当初は、「外国人と仕事が出来る環境」というだけで満足だったが、だんだんと「せっかくアメリカに来た以上は、技術の核心に迫らないといけない」と思うようになったのだ。
しかし、Jaalaaではアプリケーションエンジニア、と「他の人が開発したチップ」を使って動くアプリケーションを開発するのが担当。
コアの半導体開発の部分には触れられない。
「次は、技術のコアを設計するのが格好いい」と三度目の目標設定をした。
「電気系に進もう」という一度目の決断、「外資系で働く」という二度目の決断に続く決断だった。
■6ヵ月無給で会社をたたむまでしかし、そうこうするうちに、会社の経営は厳しくなっていく。
総計4500万ドル、40億円規模の投資も集めていたが、なかなか商用のユーザーが見つからないままに時間が過ぎ、ついに会社をたたむことになってしまったのだ。
ところが、既に一社日本で導入が決まってしまっていた先があった。
アメリカ人はどんどん辞めていったが、コミットしてしまった分の日本の顧客は最後までフォローしなければならない。
数名の日本人社員だけが会社に残って、この顧客のサポートを続ける毎日が続く。
最後は6ヶ月間給料も出ず、ついにはランチとディナーの2食を1ドルで食いつなぐ日々となった。
「本気でやせました。
せっかくなのでついでに筋トレしながらやせました。
」と笑う藤野さんだ。
そこまで切り詰めてもついに家賃が払えなくなり、元同僚だった友達から3000ドル借り、それ以外の友達からも1000ドル借り、奥さんの貯金から6000ドル借りてなんとか雨露をしのぐ日々。
そしてついに2007年6月に退職することとなった。
この激動のJaalaaでの経験を通じ、藤野さんは「自分個人が提供できる付加価値」というものを強く意識するようになる。
「会社やプロジェクトに依存しないでやっていけるだけの力を身につけられれば、会社がつぶれても関係なく強く生きていけます。
」身も心も鍛えられたJaalaaでの3年間だった。
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