明治維新を成し遂げた高杉晋作や伊藤博文、山形有朋等々の大物を育て上げた吉田松陰はその弟子の一人一人について能力の差を認めなかったと言われています。

理由は人間一人一人が持っている能力に差があるのではなく、個性や習熟の度合いに差があるのだと言う考え方であって結果、「できる者」と「できない者」との区別をせずに誰とでも真剣に議論し誰に対しても同等の指導をしたそうです。

言志四録の第99日の教えの中に「人が本来持っている本性や能力とかは皆な同じである。後天的に備わった学習の度合いや経験の内容が違うのである。度合い・内容が違うから教育によってもっと、向上させていく必要が出てきているのであり、本性が同じだから、今現在は、能力の劣っている人であっても教育によって向上し得ると確信できるのであり、そこに教育のよって立つ根拠がある」と言う一説があります。

これこそが教育の基本的認識でなければならないと私は常々思うことばかりです。

「あいつはよくできる」一方、「あいつはできない」と様々な言葉が職場には飛び交いますが採用した以上はその能力に応じて教育を施すのは当然であります。能力の差はあくまでも今、現在までに身につけた後天的な知識や経験、また、知恵の結果でありその後本人の努力によってどうにでも変化する可能性を含んでいることと終生、その能力に変化がないはずもないのです。

この認識を持つことで「できない者」「劣る者」を蔑んだり軽視したりする気持ちは起きないはずですしこの認識がなければ「できない者」を劣等視して処遇すれば益々、当人のやる気を奪う結果となるのです。

何事も先ず、知識として知らなければ知恵も働きません。

たまたま、知識がない。深く学んでいない。熟練していない。情報がない。手段・方法が与えられてない。それぞれ教育の機会を与えられずによって、無能に見えるだけのことであってその本性こそが決して無能なのではないのです。すべからく、人を指導し教育する立場の人間の心しなければならない基本原則の一つこそが言志四録の第99日なのです。