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少しだけ、父のメモをそのまま使います。



今、白いシーツにくるまれ暖かい日々を送ってます。

実は右足の手術でリハビリに明け暮れ、毎夜本を読んだりテレビを

見たり。しかし、すぐに飽きてしまい天井を見つめ思い出す。

  *両足に人工骨を入れていたため、再置換手術を受けた直後の

   メモのようです。


今から67年ほど前、私は福岡県九州の田川という小さな炭鉱町で生まれ、

昭和30年代最も不景気な時代を迎えました。力道山・石原裕次郎

又、五木寛之の「青春の門」、その時代です。


家はどこも同じ生活で、電気・水道・ガスもありません。靴下をはいた

事もありません。こんな事を天井を見詰めつつ思い出すと涙ぐみます。

兄たちは大阪へバラバラな生活、妹と私と父の3人の生活でした。

ある時期から、妹は大阪へ行き父と私の二人の生活が始まりました。


父と二人の生活は無言の毎日。父は酒びたりで、私はそれを買いに

行かされ、途中で水で薄めたりしていました。中学もまともに卒業しない

まま大阪へ。生まれてこの方電話をかけたこともなかったので、親戚に

電報を打ったけど迎えは来ず。大阪駅前より市電(最終)に乗りました。


終点の鶴町4丁目という場所で降りてみると、目の前は大きな会社でした。


  *おそらく中学卒業くらいの年齢で、出稼ぎのような状態だったかと。

    家出ではなかったと思いますが、貧乏で親戚付き合いもなかった

    ようです。アテにしていた親戚と連絡がつかないまま、大阪の

    市電に飛び乗った模様です。


3月頃で、寒く雨もチラチラ降っています。その会社の従業員たちが

「ボンサン(坊主?)火にあたれ」と言って呼んでくれました。事情を話すと

ここに泊れと言ってくれました。いわゆる飯場です。次の日から、土方の

ような仕事をさせられましたが、みんな地方出身者たちだったので

楽しかったです。


仕事内容はクレーンリフトの作成。福岡の炭鉱の生活よりはこちらの

ほうがかなり良く、毎週日曜日の休みには初めての電車に乗り「みなみ」

へと出かけ、道頓堀やグリコの看板などを見るのが嬉しくて楽しくて毎週

出かけてました。