また最近、中山博道先生の本を読んでいます。
正確には「新装版 中山博道剣道口述集」(2007年)です。
中山先生は旧武徳会から剣道・居合・杖術の三範士号を授与された方で「最後の武芸者」ともいわれた方です。
吉川英治先生の著書「窓辺雑草」の「苦徹成珠 - 有信館茶話 -」にもそのエピソードが紹介されています。
青空文庫にもなって公開されているので、長くなりますが引用してみたいと思います。旧字が混じっているので多少読みづらいかもしれませんが・・・。
吉川先生の「苦徹成珠」の文は若い時に読んで感動したことを覚えています。いまも読み返すと背筋がしゃんとなります。
「 苦徹成珠 - 有信館茶話 - 」
有信館といふのは當代劍道界の巨人中山博道氏の道床である。
そこの冷嚴な朝の道場へ出て、稽古にひと汗かいた人々に圍まれて苦茗をすすりながら、或る朝、中山氏が語つてゐた話のこれは斷片である。
わたしの母は偉かつた。かういふことを今でも覺えてゐる。
何か急なことを告げる場合に、私がつい言葉のくせで、お母さん大變ですと云つた。
すると母は、私に向つて、大變といふのは、國が亡ぶとか、御主君の身の上に何か凶事が起つた時のほかはつかふべき言葉ではない。
この頃の人は、近所から小火が出ても大變といひ、鐵瓶の湯が噴きこぼれても大變といふ。
あまり狹量で見つともない言葉である。
大變などといふ言葉をつかふ場合は、生涯にさう幾度もあるものではない、と。
わたしは又、十幾歳の頃からひどく病弱だつた。
廿歳を越えた頃には、醫者からも、永くない天命と宣言された程だつた。
それから信念に生きようと努めた。
その信念を、劍道によせて、生死のなやみを突き破るほど無性に修業へはげんだ。
いつの間にか三十、四十、五十となつて愈々體は健康になり、六十に達して、いはゆる心身の強固を一つに持つことができた。
これも母の鞭撻と、劍の賜物にほかならないと、今でも感涙がもよほされてくる。
修業といへば、かういふ體驗がある。
ひと通りの劍道を修めてから、居合術の必要をおぼえ、居合の修練に熱中してゐた若い旺んな時代のことである。
山形縣の北村山郡大倉村に、林崎神社といふのがある。
永祿年間から戰國時代までは、ここは天童領であつて、本邦の居合術――つまり拔刀法の――林崎夢想流の始祖、林崎甚助を生んだ土地である。
神社は、その林崎甚助といふ流祖を祀つたもので、徳川時代から今日まで、四百年の間、その社趾は今も郷土に殘つてゐた。
ここに、自分は、或る念願を抱いて參籠したことがある。もつとも、林崎神社は前にいつたやうな歴史があるので、徳川時代を通じて、武術を志す人々が、非常に多く參籠して、各々、この神苑で、居合の修練を研き合つたものである。
自分はまづ、參籠修業の期間を七日とさだめ、その前約半月程は、靜に身心を淨めて自適してゐた。――そして愈々、修業の七日參籠にかかつてからは、食物は白湯と粥のほかは何も攝らないで、不眠不休で神庭に立ち、七日七夜、刀を拔きつづけるのであつた。
エエ――イツと、丹田から精心を凝して白刄を一颯する。そのたび毎に、介添の者が、立木の幹へ一つの傷を加へてゆく。これは三十三間堂の矢數と同じやうに、居合の回數を記録しておくためである。
自分は、一晝夜で約一萬一千回の記録を擧げた。
腕は凝り、身心は綿のやうに疲れて、朦朧となつてくる。けれど午前二時から四時頃の深更になると、神が力をかして下さるやうに、不思議な程、快く拔けてくる。
七晝夜でおよそ七萬五六千回、この記録はおそらく古今未曾有なものであらうと自分でも思つた。
自己の全能全靈は勿論のこと、神の御力もあつてこそ、この精進とこの超人間的な記録を擧げることが出來たのだと思ひ、滿願の朝は疲れも忘れ、心は得意に滿ちて、神前に報告を終り、さて、意氣揚々として、拜殿から起つて、自分の記録を、ここの額堂に誌しのこして置かうと思つたのである。
ところが、ふと仰ぐと、そこには徳川時代の幾多の武藝家の擧げた記録が掲げてある。
過去の道友たちにも、恐らく自分ほどな精進をしたものはあるまいと、それらの奉額をつぶさに見て行くと――正保何年何國の某とか、亨保幾年何流の誰とか、無數にある先輩の修業のあとを見れば――一萬八千刀とか、中には、二萬刀を超えてゐる人すらあつて、私の持つた一萬一千刀などといふ記録は、實に、何十人といつていいほどざらにあるのであつた。
ここに至つて私は、自分の愚かな自負心と、かりそめにも抱いた高慢らしい氣持が、遽に恥かしくなつて、再び、神庭の大地へ下りて額いてしまつた。
――このやうな心で、どうして一派の達人となることができよう。先人の爲した修業の後に對してすら、頭を上げることができなかつた。
いはんや、神の前に。
どうも、人間は誰でも、自分がすこし励んでいると、おれはかくの如くやつてゐると、すぐ自負してしまふ所がある。それが、何事に於いても、修業の止りになつてしまふのである。
以來私は、いつでも、自分が努力したと自分でゆるす心になる時は、いやまだ自分の先には、自分以上やつてゐる人間が無數にあるぞ――と云ふことを自誡として胸に思ひ出すことにしてゐる。
そして、充分にやつたと思ふ以上、猶又以上、やつてやつてやり拔いてこそ、初めて、修業らしい修業をした人間といふことが出來るのではあるまいか。
――苦徹成珠
私は、自分でこの句を額にかいて、人にも與へ、自分も常に壁間に掲げて、修業の心としてゐる。
苦徹――それはただ劍道の修業だけとは限らない。人生の道、職業の道、理想への道、あらゆる道は、苦徹を踏んで初めて大道へ達することができるのである。