フォッカーD7 | まほろ市発なんでもありのブログ

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富井電鉄と書いて宵闇と読む

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今から丁度100年ほど前、第一次世界大戦の最中ドイツに画期的な戦闘機が誕生した。

第一次大戦での飛行機の発達は目を見張るばかりだった。
戦前はただの空飛ぶ機械と言われていたものが機関銃同調装置を身に付けたり、金属製飛行機が飛んだり、都市間空襲をけしかける重爆撃機が飛んだりとどんどん発達していった。

それは戦後の飛行機黄金時代とその先の二つ目の世界大戦への幕開けでもあった。
この発達がなければ今のような快適な空の旅もなかっただろう。

そんな中世界初機関銃同調装置を開発し、当時ドイツの飛行機メーカーだったフォッカー社が世に送り込んだのがD7だった。

当時連合国側をして第一次大戦に於けるドイツ最優秀戦闘機として言わしめた機体。
翼端に向かって細くなった厚い主翼。
張線を廃止した簡素な主翼支柱を持っていた。

また初心者でも失速しにくく扱いやすい優秀な機体だったようだ。

エンジンは今では高級車ブランドとして名高いBMW製の物を使用し正面にラジェターが付く独特のスタイルだった。

大戦末期に大量生産されてドイツ空軍にまたもや勝利の風を吹き込んだが、それは結局ドイツの力を盛り返すまでには至らなかった。

戦後この機体だけが連合国側から全機引き渡しを要求されたという。

フォッカー社の社長、アンソニー フォッカーは終戦時この機体をオランダに数機持ち込む事に成功した。
フォッカーD7はオランダで再び大量生産が始まった。

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生産された機体は連合国側はおろか大戦後のヨーロッパの国々へ軍用機として配属されていった。
またアンソニー フォッカーはアメリカへ移住し、ニューヨーク市民になった。
勿論フォッカーD7もアメリカでも生産されたという。

最終的に1928年(昭和3年)まで生産されたというから驚きだ。
敗戦国の戦闘機がここまで大量生産されたというのは例を見ないだろう。
ある意味同じドイツのVWビートルに近いものを感じる。
それだけ優秀な戦闘機だったという事を垣間見れる。

勿論撃墜王からにも愛された。
後のナチスドイツ空軍総指揮官になるへルマン ゲーリングもこの機体を愛用していた。
彼はレッドバロンことリヒトホーヘンの後釜の指揮官になったのだが、機体をリヒトホーヘンに習い真っ白に塗っていたらしい。

当時の空中戦は最後の騎士道と呼ばれ、中世騎士道の流れを組む貴族出身のパイロット達が色とりどりの戦闘機で戦った時代でもあった。
そんな中のゲーリングの真っ白なD7も目立ちまくりだったのだろう。

時は流れてD7も戦闘機としては古くなり、飛行機映画が持て囃される時代になった。
そんな中目をつけたのが当時の映画会社。

大量に余ったD7を映画用として譲り受けて使い、更に失業していた大量のパイロットを雇い第一次大戦の空中戦の映画を撮りまくった。


代表作としてつばさ、地獄の天使等が上げられる。
更にその後もブルーマックスやレッドバロン1971でも使われたようだ。

先日この機体を博物館で見たが、やはり名だたる一次大戦機よりも張線のない部分などが時代を先取りしているような気がする。
それだけあの大戦があったという事は良い意味でも悪い意味でも飛行機の進化には欠かせなかったと思わざるを得ないだろう。