崇徳上皇 | まほろ市発なんでもありのブログ

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明治元年、明治天皇は部下を讃岐の崇徳上皇の御陵に送って、どうか皇軍に味方して幕府を倒して明治政府を守ってくださいとお祈りしたというhttp://img.mixi.net/img/emoji/78.gif

それは永年天皇家が最も恐れた崇徳上皇への配慮だった。


崇徳上皇は平安時代専制君主を誇った白河法王と鳥羽法王の妻の間で密通して出来た子と言われていた。

白河法王に厄介者扱いされた鳥羽法王は崇徳を叔父子扱いして幼少から冷たく扱ったというhttp://img.mixi.net/img/emoji/78.gif

白河法王が死ぬと崇徳から天皇の座を奪い、さらに溺愛した後白河を天皇に付かせたらしい。

さらに自分の葬儀の時も崇徳上皇には対面させなかったという。

そこまで徹底的に虐げられた崇徳上皇は保元の乱を藤原頼長らと起こしたものの敗退。

崇徳上皇は讃岐に流された。

流された所も一説によると座敷牢のような場所に閉じ込められたという話もあるが定かではない。

崇徳上皇は流された後に詫び状を後白河に送るが、呪いが込められていると送り返された。

崇徳上皇はついに怒り狂い、自らの血で私は大魔縁になり天皇家は二度と政治から失墜させてやると呪った書を書いたという。

そして激しい恨みと憎しみを秘めたまま狂い死にしたというhttp://img.mixi.net/img/emoji/53.gif
しかし一説によると後白河の使者に殺されたという。


彼の死後崇徳上皇は怨霊になり天変地異や後白河の部下や妻、平家や源氏を滅亡に追いやったという。

この頃は菅原道真や早良親王の怨霊伝説を最も恐れた時代だったので、後白河法王は晩年寺院仏閣を讃岐を初めとして作りまくって怨霊を慰めたという。

しかし後白河の孫の後鳥羽上皇は隠岐に流され、天皇家は政治の世界から追い出され以後象徴的な存在になってしまったhttp://img.mixi.net/img/emoji/60.gif

それから800年後、明治、大正、昭和と天皇の世は続いたが、ひょっとしたら太平洋戦争に負けたのは崇徳上皇の呪いだったのかも・・・

昭和39年に崇徳上皇死後900年祭が行われたとき、白峰山麓で小学校が全焼したり頂上で雷鳴が響いたという。


しかし天皇家が政治関わることに対して呪いはあるもののその他に至っては四国の守り神として崇められたそうだ。

細川管令が四国を平定した時も、土御門天皇が皇位に復帰したのも崇徳上皇にお参りしたことらしい。

また崇徳上皇が流された後はのんびり離島ライフを送っていた説もある。

そう思うと恨みを抱いて生きるなんて事がいかにも馬鹿馬鹿しいと思うのは自分だけだろうかhttp://img.mixi.net/img/emoji/60.gif


今回の大河ドラマ視聴率はかなり低いと言われているが、この崇徳上皇役の井浦新の演技や藤原頼長役の山本耕二の演技は素晴らしいhttp://img.mixi.net/img/emoji/50.gif

井浦新さんという役者はピンポンに出ていたというモデル上がりの俳優さんらしいけどhttp://img.mixi.net/img/emoji/60.gif
初めて見る顔だな・・・

対なす後白河法王役の松田翔太君もズル賢い法王役が酷く似合うhttp://img.mixi.net/img/emoji/50.gif

視聴率に拘らなくても良いのにと思うがhttp://img.mixi.net/img/emoji/50.gif

 
それにしても崇徳の御陵のある白峰山ってとてもいいパワースポットのような気がする。
今度の琴電詣での次いでに寄りたいな。
 
白峰山のお守り欲しいな