こんにちは。

珍しく管理人連投します。w

 

今回は意味深なタイトルつけますが、管理人が

単純にガキの頃から小室哲哉氏のファンであったこと。

 

途中から、歯車が狂って来たように見えたこと。

彼のキャリアのピークはいつなのか、それについて思うがまま

勝手な意見を書き綴りたいと思います。

 

まず、私の中の小室哲哉といえばいまだにこのイメージです。

 

89年くらいでしょうか?

この頃の小室氏は、いわゆるカリスマオーラ全開でした。

正確に言うと、メディア露出と活動のバランスが絶妙でアーティストと言う言葉が一番ハマる存在と言えました。

 

 

 

さて、彼のルーツは言うまでもなくSPEED WAYから派生した、宇都宮 隆氏 木根尚登氏と結成したTM NET WORKです。

 

 

SPEED WAY時代

左端から、順に小室氏と宇都宮氏

フロントのホワイトジャケットが木根氏(当然サングラス無し)

 

デビュー当時のTM NETWORKのアーティスト写真。

当時流行していたバンド、カジャグーグーなどから

影響を受けていることが分かります。

 

 TMのデビュー当時、木根氏は正式メンバーであったものの当時の事務所やプロモーターの戦略で、TVプロモーションや映像作品には出演せず、のちに謎の男という設定で今となってはトレードマークのサングラスを付け正式に表舞台にも姿を表す様になります。

おそらく当初アーティストではなく、宇都宮・小室2名の端整なビジュアルを前面に打ち出して女性ファンを付けさせるアイドル路線でプロモーションをかけようとしていたのでしょう。(事務所の戦略とはいえ、今思えば扱いちょっとヒドイよね。w)

 

木根氏が謎の男・・設定だった頃。(いい人だ木根さん)

 

 彼らが一般的に世に出たのは、シティーハンターのエンディングソング。今でいう「ゲワイ」こと「GETwild』ではないでしょうか?

シティーハンターのクールな都会のイメージと80年代独特のアニメーションの大人びたBGMセレクトまた、アニメと言うカテゴリーでくくられる前の時代で夕方ゴールデンタイムにキー局でアニメが放映されていた親子で一緒にテレビを見ていた時代背景。

全てがうまく噛み合いアニメの終わりのフェードアウトからかかってくるこのカッコイイ曲は誰?という誰もが最初思った疑問から、一気に全国のお茶の間に躍り出ました。

 

PVはお金かけて海外撮影してるが、意外とシュールなGet Wild

 

 

では、それまでのTMはどうだったか?

 

 

 ビジュアルはセカンドアルバムCHILDHOOD'S ENDの小室氏の写真この頃は、ファーストアルバムのセールスが思うように伸びず、どうやったら世に出れるのか 小室氏の音楽性が試行錯誤されていた時代でした。いわゆるデュランデュランなどからの流れを組む、英国のニューロマンティックと言われる音楽とMTVでのプロモーションビデオの台頭。

そして、忘れてはいけないのは実は小室氏がTM立ち上げから意識していたジャパニーズレジェンドYMOの特異な3人組というバランスと役割分担の成功事例。

 

 

まだ世間ではユニットというより バンドの印象が強い頃。

しかし音楽作りの組織編成では、メンバーが必ずしも全て

演奏する必要はないクオリティ重視のレコーディングスタイルを

既に取り入れていた。サポートメンバースタイルを積極的に採用。

この形態は、のちの松本孝弘がB'zを立ち上げた際の音楽制作集団

B+U+Mの導入にも、少なからず影響を与えている。

 

 

 ブレイク前夜のTMにおける3人組の役割分担と、バンドとの距離をおいたユニットとしての新しいあり方にかなり試行錯誤していた様子がアルバムgorillaの頃まで伺えます。

それと共に、独自の音楽センスで同世代のアイドルやアーティストへの楽曲提供。

世間では小室哲哉氏は、コンポーサーとしての立ち位置も築きつつありました。

 

それは言うまでもなく。渡辺美里へのMYrevolutionなどの楽曲提供などで、段階的に世間への認知は高まっていきます。

 

 

作曲家 小室哲哉の名を世に広めた一曲。

 

 

その小室氏のソロワークの活躍に連動するようにTMNETWORKの活動や音楽性も幅を広げていきます。

 

テレビのインタビュー番組に、単独で露出する機会も増える。

 

 TMとしての活動のピークは、88年のCAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜KISS YOUの発表などで一つのピークを迎えます。

圧倒的なTM固定ファンを得て、世間の認知度と小室氏への楽曲提供のオファーなど TM>小室 から小室哲哉のいるユニットTMという認知度に次第にシフト。

ただ、楽曲は一定の評価を得ながらも爆発的はセールスまでには至らず、様々な音楽的なアプローチを試みることになります。

 

TMが日本の音楽業界に与えた影響と貢献の一つとして、ライブの演出や装置も含め日本で初めてともいえるストーリー性を持たせた演出や、松本孝弘、浅倉大介などの後に独立しブレイクするTMフォロワーも多くうむサポートメンバーとメンバーのフラットな立ち位置での音楽制作集団スタイル。

 

後に、松本孝弘氏が自身のラジオ番組でも、あの当時のライブでの演出装置や、アーティストへのマネジメントシステムは、それまでスタジオミュージシャンとして活動していた中でも無かった斬新なスタイルで、少なからず初期のB'zで影響を受けていたと語っていました。

素晴らしいパフォーマンスと楽曲とメンバーバランスの取れていた時期と言えます。

ここで、TM NET WORKとしての一つの完成形を迎えます。

 

 

TM NET WORKの追求した一つの答えとも言われる曲。

Stiil love her〜失われた風景~

ロンドンでレコーディング。TMN時代にもMステで披露される

事もあった。いまだにファンの間では、語り継がれる名曲。

 

 

 

プログレッシブロックに傾倒したTMNの初期時代

良くも悪くもTM NETWORKと言う名前が世の中にある程度認知され始め、一定ファンも出来安定期に入った時。

小室氏は、突然TM NETWORKを辞め 改めTMNとユニット名をリニューアルします。

 

また、ただ名前が変わっただけでなく、代表的なアルバム リズレに代表される。

Tレックスなどが好きであった、小室氏の原点に回帰するようにまさかのプログレッシブロックに傾倒したフルアルバム RHYTHM RED 通称リズレをリリースします。

これは、誤解を恐れずにいうと当時TM NETWORKをアイドル的目線でこじらせていた女子たちへは驚くべき音楽性の変化で賛否が分かれるアルバムとなりました。

 

小室氏も当時の音楽誌で 下記のように述べてます。

 

「もともとプログレやハードロックはルーツとして持っていて、ガンズやモトリー・クルーも好きで影響を受けていたし、紆余曲折あってTMNへのリニューアルがあって、サウンドもハードになりました。」

 

 少女達をファンタジーの世界へ誘うアイドル的な デジタルポップロックミュージックのイメージから一転して、小室氏の音楽遍歴の原点でもあるプログレロック、ハードロック路線への楽曲の展開。

 

 また、この時期大きな役割を果たしたのがB'zの活動が多忙化してサポートメンバーから抜けた松本孝弘氏の穴を埋めた元TVの葛城哲哉氏、通称葛Gの加入でした。

彼のギターサウンドが、小室氏の求めるプログレ、ハードロックの方向性と上手く噛み合いこれまでなかったサポメンギタリストが、レコーディング楽曲でもリードボーカルやコーラスも木根さんを差し置いて楽曲によっては葛城氏が取るほどの変貌ぶり。

リズレは、今聞いても古臭く感じない。ジャパニーズプログレロックアルバムであり、後に94年TMが一期終了を迎える際に、出された関連本でも、その前のサポメンであった松本孝弘氏がキャロルの後、自分のTMでの役割は終わったと感じて身を引いたが、後のリズレで音楽性がまた代わりカッコよくなったよね。とTMNの最後という書籍でもコメントされていました。

 

小室氏作詞作曲の名曲。メンバーのビジュアルも洗練されている。

★余談

一部のファンの間では、歌詞がカッコ良いがよく読むと意味が全く

分からない。雰囲気重視の凄い歌詞。と話題になった。w

 

暇な方は、この曲の歌詞を読み解いてみてください。 

私も頑張ってみましたが出た結論は、・・・・考えるな、感じろ!

。。。。でした。Don’t think, feel ! byブルース・リーww

 

THE POINT OF LOVERS' NIGHT

(作詞 小室哲哉)

 

電話ボックスに 忘れた カセットで
君のメッセージ僕に 伝わった
一人ぼっちの店のテーブルには
ボクを待っていた…キミがいた
探しても見つからない
誰も知らない未来への近道は
言葉を選ぶ君の返事からは
明日は何も見えなかった
だけど寄り添った君の体からは
信じられる温かさを感じていた


夢が見つかるまでは 傍にいて欲しいから
強く抱きしめていて 君はそう言っていた
今はまだ分からない 愛がどんなものかも
だけどぬくもりだけは 君も気づきはじめた

沈む太陽と光る月のシルエット
泣きだしそうな夜と君
いつから僕は君と知り合った?
とても昔の思い出のようさ
優しさに 吸い込まれてゆく
お互い気づかずに 近づいて巡り合う
言い争いで 理解り合えなくても
悲しい気持ちの時にも

ただ寄り添って 時を感じていたら
一人じゃなくて二人だけの 明日が来る

※夢が見つかるまではそばにいて欲しいから
強く 抱きしめていて 君はそう言っていた
歩き出す君がもし 僕を必要ならば
君が UH~ 好きだから いつも見守っていたい※

(※くり返し)


ララララ…

 

 

 

 TMNはリズレリリースの後、EXPOを発表しTM NETWORKとTMNの混在した新しいシティーロックへの回帰路線を打ち立ててゆきます。おそらくリズレ路線で二枚続けてアルバムを出していたら、固定ファンと一見さんのファン両方飽きられていた可能性もあり、そのあたりの新しいアプローチを怠らない小室哲哉氏のセンスも当時は100%

TMにベクトルが向けられていた、TMファンがいまだに望むバランスの良い時期であったと言えます。

この時期、忘れがちなのですが自称エアギターのマルチプレイヤー木根尚登氏がリードボーカルをアルバムで

取り始めたのもTMNになってからの大きな変化点であったと思います。

そして、キネバラと言われる数々の名曲の作曲はいうまでもなくTMの彼の立ち位置でしたが、思わぬボーカリスト

としてのポテンシャルの高さが第3の男の本領を発揮しTMNとしてさらなる幅を持たせたことになりました。

 

また、ボーカルの宇都宮 隆氏も TM NETWORK時代は、ボウイの氷室京介氏の影響を少し受けた髪型や少しふっくらしたビジュアルから、スティーブンタイラーを彷彿とさせるようなメッシュのロングヘア。

スッキリ絞られた肉体と大人になった顔立ちで、未だにビジュアルボーカル共にピークの時期を迎える色っぽいボーカリストに成長。またダンスとヴォーカルスキルの高さも際立つ当時日本を代表するボーカリストへ成長していました。

 

 

衣装も、ハードロックスタイルから当時流行のDCブランド

原色系衣装へバブルの匂いも漂う衣装スタイル

音楽的バランスは、ロック、デジタル、フォーク、クラシック風

演者の円熟期も重なり、TM史上一番個人的にバランスが取れていた時期。

 

 

 

1994 TMプロジェクト終了。

 

 

 

TMのプロジェクトの終了は、突然訪れました。いや、正確にいうと当時よく聞き込んでいたファンは少し察している感はありました。

 

 EXPO以降 TMとしての目立った活動が減り、ライブリテイクアルバム、クラシックスというリミックスアルバムなど、過去の遺産をリテイクした音源のリリースが続きそれと並走する形で小室氏はエイベックスの活動に注力しtrfでの当初実験的テクノインスト系音楽のリリースから、お得意のポップミュージック解釈を取り込んだバランスの良い音楽をプロデューサーという立ち位置から新しいレーベルパートナーとなるavexと創作活動を初めていたからです。

 

 

彼らのブレイク曲。この前身MEGA MIXという

グループよりYU-KI SAMなどを中心としてtrfとして93年に

ほぼテクノインストの実験的アルバムがシングルとともに

リリースされている。活動の軸がエピックからavexへシフトし始めた

ターニングポイント。

 

 

 TMはといえば、しばらくのソロ期間を経て確か93年TMNの久しぶりの新譜 一途な恋 が夏にリリースされましたが、主だったプロモーションも無く露出も少なく、シングルもこの曲のみの収録。プロモーションビデオもない。

肝心の楽曲も、正直ベクトルが定まっておらずTM再始動への期待値が高まる中、TM NETWORKの後期に戻ったような中途半端な仕上がり。この次アルバムが出るとしたらどんな路線にになるのかイメージすら、できませんでした。

聞き込んでるファンは、この頃から解散を意識していたとも言えます。

 

もう一点94年のTMNのプログラム終了宣言の際、伏線として私の記憶で蘇ったのはYMOが第1期の活動を終了する際「散会」という言葉を用いた点でした。

 

小室哲哉氏の中で、YMOは特別な存在で 終了 という言葉は 散会という言葉からインスパイア受けた言葉であることは恐らく大方外れてはいないのではと、管理人は受け取っています。その証拠の1つにラストライブの小室氏のスタイルにも現れています。

 

上は、YMOの散会ライブの時のビジュアル。

そして、下はTMNの終了の際のビジュアルです。

 

私は当時、小室氏を見たとき散会ライブの坂本龍一氏のビジュアルを思い出し重ね合わせました。そして多分意識しているのだろうとも感じました。

それまでの、小室哲哉のイメージを全部取っ払って、0にした7:3での前髪分けスタイル

シックな服装。彼なりのプロジェクトに一区切りつける儀式にピッタリくるビジュアルだったのだと感じました。

 

そして、当時の小室哲哉氏は、いうまでもなく坂本龍一氏の存在を大きく意識しリスペクトしていることも感じ取れました。

ちなみにこの頃、坂本龍一氏は スウィート・リヴェンジ というポップ路線回帰のアルバムをリリース。この後数年後、中谷美紀とコラボするmind circusという上質なPoPアルバムリリースするなど。わかりやすい音楽へのアプローチを重ねている時期のように思えます。

 

 

中谷美紀 mind circus   坂本龍一プロデュース

 

中谷美紀 天国より野蛮 坂本龍一プロデュース

 

共に当時の日本での流行サウンドスタイルを意識せず、楽曲コンセプトから

坂本龍一ならではの サウンドの深みを出させる当時の彼の中の流行アレンジが

多数散りばめられてる。その為か、2020年現在聴いても古臭さを

感じない。小室氏が時代の流行と相対的に作曲していたのに対して

坂本氏は、ニューヨークを中心としたトレンドを意識しながらも

絶対的な音楽感性を軸に作曲していた様子が伺える。

 

当時のセールス的には、時代と相対的にサウンドを作った小室氏の方が

実績を取ったが25年経った今も、懐かしいという感覚以外で本質的に

楽曲をきけるという意味では、どちらが作曲家として正解なのか?

その答えは無く。世の中に作品を残していく創作者としての

スタンスの違いとしか言えない。そもそも小室氏と坂本氏とは

交わる事のない音楽制作理念の違いを、持ってる2人なのです。

 

 

95年くらいの 当時の教育テレビ土曜ソリトンで

MCでYMOフォロワーのアーティスト高野寛氏と

女優緒川たまきさんのインタビューに答える坂本氏

上記のプロデュースをしていた時期と重なる。

 

 

Hulu

 

小室哲哉氏を追いかけると坂本龍一氏の事をスルーする事はできない。

まさかこのあと、お互いの音楽の興味のベクトルが一瞬でも重なり 教授が小室プロデュースのavex dance matrixのステージで共演することになるとは、想像もしなかった。

 

さて、今日はこれまで。

次回は、小室哲哉氏のプロデューサー隆盛時代から、失速、逮捕、復活そして引退まで。

まさに栄枯盛衰の第二部をお送りしたいと思います。お楽しみに。

 

※この文章はあくまで一ファンである管理人の個人的な意見です。