今度こそ、ホームページを作りました。

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『無論記』


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※ これから書くことは、

  大学のI先生が国際政治の講義で言っていたことです。

  それに、私の意見を踏まえて述べさせていただきます。

  ちょっと危ない批判があるかもしれませんが、

  ヤバかったら、削除します。



  注)私は反日家では、ありません。

    むしろ、日本を愛しています。

    ゆえに、ちゃんと日本を嫌悪することもできます。

    その前提を踏まえて、暖かい目で見守っていただけると嬉しいです。














昨年の夏、私は上海に一ヶ月間、留学という名の遊学をしに行った。

上海にある大学で勉学をしていたのだけれど、

私のクラスは、フランス人、タイ人、アメリカ人、韓国人など、

様々な国から来た生徒たちで構成されており、とてもグローバルな雰囲気だった。

そして、そこには二名の日本人留学生がいた。


はっきり、結論から申し上げると、

彼らは、


「日本人の中の日本人」 だったのだ。


中国人の教師たちも、

外国人の生徒たちも、

彼らの異常なる「真面目さ」に驚いていた。


その詳細を語った方が、伝わるのだが、

彼らの批判になってしまうので、割愛。


彼らの姿が一概に日本人の本質だと言うわけではないのは、もちろん分かるが、

彼らは、国際社会から見た「日本人」を体現していたのである。

インターナショナルなそのクラスにおいて、その日本人生徒二人は、

明らかにイレギュラーな存在だった。


遠慮がちなのか凶暴なのかわからない、

正に「菊と刀」を持った日本人だった。


正直、私は終始、彼らに苛立ちを感じていた。

私は日本で育ち、日本人の気質を身につけたが、彼らほどではない。

今日においても、彼らのような「日本人」がいたことに驚いた。


彼らは日本人の異様さを体現し、

クラスという小さな国際社会の中で、「孤立」していたのだった。






日本人は「空気を読む」民族である。

いや、「空気を読みすぎる民族」なのだ。


I先生は、日本人のその特質を、

「自律調整器官」と表現していた。


自分の態度や発言が、この場の「空気」に相応しいのだろうか。

その、相応不相応を感じ取るのが、「自律調整器官」であると。


日本人は、その器官がもっとも発達している。

この民族は、集団主義でムラ意識が強いため、「KY」な人間は排他される。

だから、日本において、「空気を読む」ことはとても大事だととられている。


しかし、一歩、日本を踏み出ると、日本人のその態度は、外国人にとって、

まさに「KY」なのだ。



外国人はある意味、「自律調整器官」が欠如しているとも言える。

上海の大学のクラスでも、フランス人やアメリカ人は、

人が話をしている最中でも、遠慮なくズバズバと、自分の意見、疑問を述べていた。

たとえ、その理論が不完全でおかしくても、だ。


「日本人」である私は、それを「KY」だな、と感じていたのだけれど、

小さな国際社会において、

その「KY」な態度こそが、「空気を読んでいた」のである。



日本人の強迫観念の一つに、

「絶対に正しい意見を言わなければいけない」

というものがあると、I先生は言っていた。


日本人は、正しい結論を導き出すまで、己の心の中で思考を巡らす。

講義や会議などで、とっさに意見を求められても、すぐには結論を出せない。

というか、すぐに結論を出すということ自体、常人には難しいわけなのだけれど。


日本人は、不完全な意見を言うことを、大変に恐れている。

つまり、インスタントな反応ができない、したくないのである。

講義でも、ほとんどの生徒は、発言、反応をしない。

しかし、生徒たちの講義の感想文を見ると、

驚くほど凄い理論が述べられているのだ。




反対に、外国人は、

「とにかく発言をしなければいけない」

という、強迫観念がある。


人の話を遮ってまでも、自分の意見をとにかく、言う。

それ、絶対おかしいよね?という理論であっても、堂々と、言う。


外国人は、結論に至るまでの不完全な段階の思考を、

他者に対して、平気で投げかけるのである。

投げかけられた歪んだ思考のボールは、

また他者に、投げ返される。

その繰り返しによって、歪んでいた思考のボールは、

最終的に丸い理論となって、完成することがあるのだ。



このことをI先生は、「言葉のマーケット(市場)」と言っていた。


日本人は、思考のボールを自分の中で投げて転がし、丸い結論を作り上げる。

逆に外国人は、思考のボールを他者に対して、投げて査定させて、

人と人との間で錬磨し、結論を作り上げていくのだ。


つまり、思考のボールを内に投げるか、外に投げるか、の違い。

そこには、「他者への信頼」という問題があると思う。



日本人は、思考のボールを他者と共有しない傾向にある。

なぜならば、この民族は、

集団主義であるにも関わらず、他者を信用していないのだ。

本当に信用できるのは自分の思考だけ、ということ。



文化は全て、相対的に価値があり良さがある。

論理的なアメリカが良いとか、

感性的な日本が良いとか、

一概に言えるものでない。


日本人は消極的だ、もっと積極性を持ったほうが良いと、良く言われる。

海外に行くと、更に日本人の「おとなしさ」が悪目立ちする。


でも、日本人の沈黙は“ 金 ”なのだ。

正論を言わなければ、という強迫観念と、

他者への「不信用」が、日本人に沈黙をもたらす。

しかし、それは無意味なことでない。

確かに不利な点はあるけれど、日本人の沈黙によってもたらされる結論は、

とても素晴らしい、と私は思う。







話は変わって、I先生のお話。


I先生は昔、国連で働いていて、出馬もしたことがある。

I先生は出馬した際に、あの小沢一郎と話をしたときの話を話してくれた。

その一部を紹介したい。


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オレが選挙活動している時に、あの小沢一郎が来たんだよ。

それで、オレと小沢さん、二人っきりで話をすることになったんだけど、

今でも、その時の彼の顔と言葉は憶えている。

テレビで見た彼の顔と、実際見たのは全然違ったね。

拍子抜けしたよ(笑)

小沢はオレに対し、こう言ったんだ。


「日本を民主主義にしたい。」

「今の日本人は市民じゃない。」

「日本人は変化に対し、躊躇している。」


吃驚したよ。

あの小沢一郎が、まるで、学生みたいなことを言うんだ。

それも、熱くね。

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私はもちろん、小沢一郎に会ったことはないけれど、

そのI先生を通しての小沢一郎 像は、悪くはなかった。


小沢も日本国家を変えようとする、一人の政治家なのだと、

そう思った。






でも、それにしても、


どう思う?








小沢一郎の 「 顔 」 。









どう思いますか、皆さん。

はっきり、言って...



語弊をさけるために言っとくが、

「美醜の問題」ではない。

個人的には、小沢氏の顔は渋みがあって、好きな方である。



私が言いたいのは、

小沢一郎の「顔」から受け取る「イメージ」のこと。


I先生も小沢氏の顔について、言及していた。

はっきりとは言いはしなかったけれど、あきらかに負の意味がこもっていた。



やっぱり、人の顔って、

その人の思想や想い、感情などが全て浮き彫りになっていると思う。


そして、テレビに映る小沢氏の顔にも、彼の全てが表れている。

何て言えばいいの...


とにかく「イヤそう」なのだ。


記者に対して、とにかく「拒絶!」な顔をしている。

諦めともとれる、何ともいえない顔。

まるで、「キ○ガイ」と対峙したかのような顔。



 「あんたに言っても意味がない。」

 「まったく、こんな輩と話したくない。」

 「ほら。また、バカなことを言っている。」


小沢氏の顔からは、そのような彼の思いを感じる。





それは、メディアに出ているときだけじゃないの?



そう。

そうなの。

真実は、分からないけど、そうなの。


I先生が、本物の小沢氏に会って、

その顔(表情)を見て、拍子抜けした、と言っていたように、

普段の小沢氏、テレビに映っていない小沢氏は、そのような顔ではないはず。



つまり、小沢一郎は、


「メディア嫌い」






つまり、つまり、

小沢は、メディアも国民も、




 信 用 し て い な い 。




ということ。







日本人が、他者を信用せず、自分だけを信じて、

思考を己の中で完結させようとする態度。


小沢の態度は、まさにそれ。




小沢は圧倒的にメディアと国民に疑心を抱いている。

だから、我々にも記者にも、何も言わない。

あまつさえ、バカにしたように虚言を吐く。


彼は知っているのだろう。

正論を言ったって、メディアに取り上げられるのは不利な発言のみ、だと。

何を言ったって、世情は私を理解してくれない、と。







今、全ての報道機関が、己の面子(メンツ)を捨て、

ある事柄に、興じ(狂事)ている。

それは...






「 民 主 党 つ ぶ し 」






どの新聞社もテレビニュースも、バカの一つ覚えのように

「小沢問題」を取り上げている。




先日、小沢がとても重要な発言をした。

しかし、メディアでは、「一切」その発言が報道されなかった。

その発言は、「民主党つぶし」の邪魔になるからだ。


ちなみに、その発言の映像は、民主党web-site で見ることが出来る。



もう、マスゴミは信用できない。

「もう」、じゃない。

とっくの昔から、マスゴミは国民を騙してきた。

「敗戦」を「終戦」と伝えたマスゴミ。


この国が民主主義を貫きたいのは、

国民を情報によって操作して、国をコントロールするためだ。


...今のは、ちょっと言い過ぎたけど、そう感じざるを得ない。






I先生曰く、

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もう、頼れるのは「インターネット」しかない。


メディアには、意図がある。

一人一人の民が、マスゴミから与えられる情報を鵜呑みにする態度を改め、

インターネットなどで、自分が真だと捉えられる事実を、

自らの手で、取得しなければならない。

今は、それが出来る時代だ。

ITによって、コミュニケーション・スタイルは変化した。


今は、変革のとき。

政治を変えるのではない。


政治“ 文化 ”を変えるのだ。


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先生、熱い。



変わらなければいけない。

市民としての意識を持たなければいけない。

でなければ、メディアによる民主主義が完璧に実現してしまう。




今の日本国民にできること、

それは、


「正しい情報の獲得」



何が正しいのか正しくないのか、それは「今」を生きている限りわからない。

でも、明らかに分かることは、


“ メディアは正しくない ” ということ。

















日本人。


なんたるチキン。


チキンの頂点を極めた民族。


「批判の批判」ばっかりして、愚かしい。




それでも、

日本人は素晴らしい。





私は、日本人じゃない。

でも、そこら辺の日本の大学生よりかは、

日本を愛していると思う。


日本という国、

文化、

そして、民、

私は、その気質が大好きでしょうがない。


決して「日本人よいしょ」をしているわけではなく、

純粋にそう感じる。



ニッポンはこれから、

世界を平和にするために、

重要な役割を果たす国となると、私は思う。



「もののあはれ」がわかる繊細な国、ニッポン

惻隠のこゝろを持つ国、ニッポン。

ユートピアな憲法がある国、ニッポン。

唯一の被爆国、ニッポン。

美しい国、ニッポン。




どうか、「普通の国」にならないで、

「変な国」を貫き通してほしい。





( 了 )
















もし、こんな長い文章を読んでくださった方がいましたら、

こころより、感謝申し上げます。










ありがとうございました。

「幸福の最大化」と「不幸の最小化」

どちらを求めれば良いのか分からない。



『近代の超克』とか、なぜ白か黒かの選択肢しか見いだせないのだろう。

近代を拒絶するのでも全て受容するのでもなく、程々に歩み寄ることが重要だと思う。



最中にいる状態では真実はわからない。

我々は『現在』のものさしで過去を見て、正か悪か、妥当か過ちかを判断する。

しかし、この『現在』の真実も時が経てば新たな『現在』のものさしで判断される。

その度に「真実」は変化していく。

結局、「真実」などというものは存在しておらず、相対的客観性からの視点をただ「真実」と名付けているだけなのかもしれない。



人は皆、何でも出来る。

大量虐殺でも自爆テロでも原爆投下でも、必要に迫られれば出来てしまう。

皆、ヒトラーや神風特攻隊、エノラ・ゲイ機長になる可能性を持っている。

彼らは特殊な人物ではなく、我々と同じく、生まれたときは何も持っていない赤ん坊だったはずだ。

彼らは、時代が、社会が、人々が作り出した犠牲者なのかもしれない。



消極的で集団を重要視する日本人は、きっと世界のリーダーになれない。

というか、リーダーがいない社会で、日本は成り立っているのだろう。

母性原理の日本が父性原理の欧米の要素を無防備に取り入れたことが最大の過ちだったと思う。



憲法9条は素晴らしいと思う。

しかし、この憲法をアブノーマルだと考える世界の概念体系に失望した。

日本は素晴らしい国だ。

旗を持ちブーツを履いた「普通の国」に成り下がらないでほしい。



戦争もテロも人の意識によって生まれるのだと思う。

現実があって意識が生まれるのではなく、意識があって現実が作られるのだ。

まず、人々の意識、思想から見直すべきだと思う。

物理的強制力に対し物理的強制力で応じれば、勝者と敗者が生まれるだけだ。

21世紀は意識と意識の対話を望みたい。



21世紀の産物に対抗できるのは、憎しみや怒りに相反する、「愛」だと思う。



秩序は無秩序から生まれる。

秩序からも秩序は生まれるが、

無秩序から生まれた秩序のほうがおもしろい。

21世紀はきっとおもしろい。



私が現段階で大学に通っている目的は、教師の思想を享受(または批判)し自らの思想を構築することである。

本当の思想とは字だけでは伝わらない。

池に石を投げ入れて、初めて浮かびあがるものがある。

他者の思想を得る場、それが大学だと思う。



今日の社会で人間として生きていくには、「ある程度の無知」でいることが重要だと思った。

知識や情報は自信を得る為のツールであって、真実でも確証でもない。



アメリカは左脳の国、日本は右脳の国だと思う。

論理的なアメリカ人は法を利用する。

感性的な日本人は法に操られる。

結論、感性的な日本人に法治国家は合わない。

ゆえにグレイゾーンとは、日本人が作り出した「感性の余裕」なのではないかと思う。



世界を水の入った一つの水槽だとする。

ある者は世界を知るために容器で水槽の水を掬い、水を研究している。

またある者は別の容器を使って水を調べている。

しかし、誰も水が入っている水槽を知ろうとはしない。

科学とは世界の一部を切り取り論理的に表現する道具にすぎない。



我々が何かを理解するためには言葉や思想という概念が必要で、我々は概念を通さなければ事実を理解し得ない。

世界を知るための概念、つまり言葉の限界が我々の世界の限界なのだと思う。



我々の体は本当にC・N・H・Oだけで構成されているのだろうか。

ちょっと単純すぎる。



観測者がいなければ宇宙は存在しない。

宇宙(神)は自らを認識させたいがために人類を生み出したらしい。

ではなぜ、いずれ滅びるであろう有限的な存在に観測を託したのか。

やはりそこには、不滅の霊魂の存在が関与していると思う。



宇宙周期は43億56万年、

そして地球の分点周期は2万5千8百年、

ヒンドゥー教のヨガの大周期は2万4千年、

プラントも同じよなことを述べていたらしい。

科学と宗教の共通性は興味深い。



ある人が自分には学問がないと幾度も卑下していたが、その人の思想や信念は学問を超越するものがあると思った。

真の思想とは学問からは生まれないのかもしれない。



言葉の限界を感じる。

深遠な話題の意見を交わし合うには、言葉というものはとても不完全で不都合だ。


伝えたいことがある。

言いたいこともある。

考えたいこともある。

だけど、それらを表すだけの力、表現手法がない。

論理的思考の未熟さを感じる。