​​​​​毎日に一生懸命で、真面目に過ごしすぎて

疲れ果てた私が

ふとコロナで立ち止まり

気持ちを入れ替えて進み出したブログです

 

 

気持ちの持ち方、

思考の方向転換をしている過程での

気づきや得た知識を主に伝えています

 

 

 

「救世主(メサイア)コンプレックス」

 という言葉、知っていますか?

 

 

日本語で救世主妄想ともいわれる

この思いを持つ人の特徴は

無意識のうちに誰かの救世主になろうとし

それによって自我を保とうとするのが特徴

 

 

” 救世主 "

 

 

この言葉だけを聞くと

「それが誰かを救っているならいいのでは?」

と思いがちですが、

その言葉にコンプレックスとつくので

奥がありそうですよね、、、

 

 

私は、自分が年齢を重ね

知識も経験も増え、若い頃の自分に比ベると

明らかにパワーアップしているはず、なのに

なぜ「生きずらさ」を感じるのだろうと

思うことがありました

 

 

例えば、仕事において

部下を教育する、といった類のこと

自分が感じた良き経験を、部下も感じられたら幸せ

 

勝手に思うがばかりに、強く強く

メッセージを届けていたように思う

 

さらには、それによって喜んでいる姿、成長を感じた時

結果的には

自分の喜びになっていたんですよね

 

 

双方が幸せならいいのです

 

 

 

 

 

 

けれど、私は人が成長することでで感じるやりがい

責任や義務と履き違えることによって

部下に成長を押し付けてしまっていたり

 

 

自分の喜びのために、教育しているのでは?

と思うこともあったり

 

いわゆる「したった感」です

 

 

また、その感覚が

会社での評価や自分の能力を問われている気がして

ならなかった

 

 

 

「誰かを救いたい」という感情に

「自分が救われたい」=  よく思われたい

という感情が混ざっているところが

メサイアコンプレックスの難しいところ
 

 

フォーカスがズレると

自分は、人の役に立たなければ価値がない

と思うようになってしまう

 

 

自分のことはおざなりにしながら、

人のために時間もエネルギーも使ってしまう

 

いわゆる、自己犠牲するのが習慣になり

こんなにも、やって(あげている)のにっ!となる

 

 

他人から見ると、

「お節介」「ありがた迷惑」の一種なのかもしれない

本人からすると、「与える、無償の愛」の感覚なのに

 

 

 

この

人を救うことによって、自分が救われたい!

=自分が満たされていない と感じてしまう

 

 

 

相手が嫌がっても、それを押し付けたり

相手の反応次第で、怒りになったり

相手の学ぶ機会を横取りしてたりする

いろんな問題が出ることがある

 

 

 

 

 

 

誤解のないように、という点では

人を助けたいという気持ちはとてもすばらしくて

 

ただ、それがやり過ぎてしまうと

相手の自立や考えるチャンスを奪ったり

自分へのケアがままならないのに

人のことを秤に取り憑かれたようになってしまうのは

要注意ということなんです

 

 

要は、バランスをとりながら!

 

 

 

 

自分の仕様としていることが

結果誰のためのものなんだろう?

 

相手が自分の行為を拒否したときに、

どんな感情が起きるのだろう?

 

 

心から、誰かのためにやってあげたい

その相手も、それ望んでいるなら

 

 

双方にある、共通の認識

このあたりを意識しながらできるといいんでしょうね

 

  

 

 

 

 

困っている人を見たら助けたくなるタイプは

頼まれていない親切は

余計なお世話になることも

 

 

自分より、他人にフォーカスできる人は

「素敵」に見えてしまうことがあるけれど

 

結局、自分にエネルギーがないまま

他人へ手を差し伸べる。と

このままでは他人に

いいエネルギーを与えれないよね

 

 

優しすぎる人こそ、陥ってしまう

責任感強い人こそ、無意識な圧になっていることも

 


 

誰かの前に、自分に慈愛を持てること

 

 

「自分を大切にすること」は

自分のエネルギーを高めることの最小で最大のパワー

だから、大事なんだね