大学二年生最初の住宅設計課題は順調だった。

 

 建築ことを忘れて思うままに絵を描きまくった冬休みを過ごしたのに、建築に対するセンスを失うことがなく、むしろ一層高まったような気がする。設計が始まってから今までのプロセスはスムーズに進んでいる、大学一年生の頃に体験したことのない爽快感だった。

 

 昨日、三回目のエスキスでは決定案を先生に見せたら製作に移ることにした。提出まで二週間があり、かつてないほどの余裕を手に入れたら私はより良いものを作れるような自信を持つようになった。

 

 

 建築設計課題と並行して行うお絵描きの自主研究も怠らない。

 

 翼をもらった瞬間、空を飛びたくなる衝動と同じように、絵を「描ける」ようになったら、他人の目で世界を観察し、他人の手を借りて絵を描くのではなく、「自分ならではの絵」を描きたくなるのは当然のこと。「創作」という欲望は、私の中ではほかの基本的欲求より大きく膨らんでいる。

 

 

 

 

 ずっと前から私の頭には世界一美しい女のイメージがある。美大生なので、いっそ描き出してみようと思ったら、何枚を描いて見比べても、「なんか違うなぁ。」と思ったのだ。なぜなら、私のイデアから生み出した世界一美しい女のイメージはアイデア、或いは想像。それは世界に存在しない、絵にできないし現実を落とし込むこともできない想像からだ。それに気づいたら世界一美しい女を描くことを諦めたが、あの美しくて完璧な女の曖昧なイメージは変わらないまま今でも私の頭に残っている。

 

 数学や幾何学の力を借りて現実世界で「完璧」な作品を作る試みを行った大学一年生の私だった。「完璧」の言い換えは「たった一つの正解」。しかし今はむしろ真逆の方向へと進んでいて、曖昧さを認めつつ不完全なものに潜む言葉にできない美しさ、「無数の正解」を求めるようになったのである。

 

 それ故に最近、印象派について研鑽し始めた。それは半年前の私にとって到底考えられないことだった。

 

 

 四年間は私にとって全然足りてない、このままではあっという間に大学を卒業する予感がある。私は関心の射程を狭めさせなければならず、それによって深いとこまで掘り下げるつもり。

 

 困難と伴う研究、それでも新しい一歩を踏み出さなければならない。疑問があって自分の限界を感じるたびに、知識を学ぶことで自分を高める。物理などの理科とは異なり、絵画、或いは芸術という分野には系統的な知識がないゆえに多くの場合は「経験」に頼るしかない。つまり、絵画を研究しているすべての人の経験は価値があるもので、知識になりえる。いくら本を読んでも答えは見つからないのならば、私こそは、その答えを書き出す第一人者になるのだ。