浴衣デートの数週間前、筆者は会社の同僚女性と酌み交わしていた。
その女性も絶賛お相手募集中。
彼女は、個展を催すほどの写真の腕前で、感性豊かである。
お相手にも感性を求めていた。
元彼も、アート系のお仕事をされている方。
彼女の認めるほどの感性を持った男性とは、なかなか出会えないという。
筆者「わたしは、一緒に月を見てくれる人がいいです。飛び抜けた感性は要らないけど、『きれいだね』と共感できる人。」
同僚「あー、それすごいわかる!月に気付かない人もたくさんいるものね。」
この日の我々の結論は、
「月の情緒がわかる人がいい」
であった。
そんなことがあった矢先の夫氏の離れ業。
いたではないか!
月の情緒がわかる人!!
筆者はそんな感動を覚えていた。
ある日、会社で家族同伴のパーティーが催され、夫氏に同僚を紹介する機会を得た。
先の同僚と挨拶をしたのち、夫氏に先のエピソードも紹介した。
筆者「かくかくしかじかで、あなたの告白はびっくりしたし、すごく嬉しかったのよ✨月の情緒のわかる人に出会ったよ!って報告したんだー。」
夫氏「あれは、情緒じゃなくて、教養でしょ。」
ん?
筆者「いやいや、情緒ありきの、ちょっとした教養でしょ?」
夫氏「いや、単なる教養でしょ。」
がーん。
単なる教養。
たしかに、あのフレーズ自体には教養が求められる。
しかし、月に気付いた、それを美しいと思ったことは、情緒ではないのか。
先日の満月の折。
筆者はベランダで月を眺めていた。
ソファでテレビを観ている夫氏に声をかける。
筆者「満月きれいだよ!」
夫氏「そっか。よかったね。」
夫氏は、外に出ることはなく、『きれいだね』と共感することもなかった。
やはり、あれは単なる教養。
筆者は、この教養おじさんに、してやられたのか。
あの日の感動はいったい…