司馬遼太郎と言えば、「国盗り物語」であり「竜馬がゆく」のはずが、まあ、「坂の上の雲」が代表作になるんでしょうね。吉川英治も「宮本武蔵」ではなく「三国志」か。
村上春樹は「ノルウェイの森」ではなく代表作無し、の可能性も。
大江健三郎も「万延元年のフットボール」ではなく「芽むしり仔撃ち」「飼育」あたりか。
筒井康隆は「時をかける少女」、星新一は「ボッコちゃん」、三島由紀夫は「仮面の告白」、スティーブン・キングは「シャイニング」
江戸川乱歩ならば「陰獣」ではなく「パノラマ島奇譚」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「幻影城」あたりか。
時代により、評価の基準が微妙に変わったり、なくなったりする。
例えば、大江健三郎の「万延元年のフットボール」ならばその特異な文体、地域性、ハードさ、歴史の連関性、天皇とは、地域に侵食する資本体制は、切実さ、新鮮さがあったはずだが、小説に社会改良、革命といった使命を帯びさせた時代が終わってみると、「分からなくなる」ことがある。谷川俊太郎の鳥羽から、本当のことを云おう、と言うエピグラフに導かれた物語は、戦後の復興、経済的成功の光が、不気味な程の影を持っていた事を表現している。近代が終わり、現代となると、違うモードとなり、テーマから意味が奪われており、切実さなき読み手からは物語がこぼれ落ちてしまう。その後の殆どの作品がウィリアム・フォークナーのようなサーガを形成していくが、その射程は自然、狭いものとなっていった。
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