高校生の頃、自然、なんとなくJ・D・サリンジャーに興味が出て、学校から帰宅すると「ナインストーリーズ」「フラニーとズーイ」(野崎孝訳、新潮社刊)をちびりちびり読み、学校の図書館では「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝訳、白水社)をやはりちびりちびり読んでいた。どちらも惚れ惚れするほどのおしゃれなブックデザイン。
※かなり経ち、スコット・フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」(野崎孝訳、新潮社刊)を読んでいますが。野崎孝と言う存在がかくもまさに偉大だとは最近まで気づかなかった。
「映像の世紀 バタフライエフェクト」の
ノルマンディー上陸作戦
を見たら、アメリカの世紀のはじまり、あのナチスドイツからヨーロッパをナチズムから開放した金字塔的な作戦(ノルマンディー上陸作戦)は、薄着の民間人に見えたベトナム人を機関銃とナパームで追い詰め続け、結局敗れたベトナム戦争とは違い、枢軸国以外からは栄光としか捉えられないはずにもかからわず、帰国した戦闘員だったアメリカ合衆国の民間人の武勇伝を聞いたことはない、と気づく。少なくとも僕は。
J・D・サリンジャーはノルマンディー上陸作戦に参戦し、重度の精神的なダメージを受けていたようで、戦地での経験が齎したものは、語り得ないものを抱え続け、と言う生涯だったようで、日本の場合には東アジア・大東亜戦争所謂太平洋戦争に参戦した戦闘員だった人々は敗戦により内外に誇るものはなく、大義は否定され、あまりの貧窮、飢餓と隣り合わせの日常に精神的ダメージを吐露する余裕はなく、現実に追われに追われ、ある程度の大日本帝国陸海軍の中で地位があった人は下手なことを語れば戦犯やら道義的な責任が発生する可能性があり、沈黙せざる負えず、東京裁判の余波は長い間続いた。戦争終結から30年の時を経、山本七平が口を開けるまでは。
J・D・サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」の「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んで、長い間ちんぷんかんぷんだったんですが、いつ湧き出るとも分からない、未消化なモノ(トラウマ)、語り得ないを抱え発作の予兆に、それが自分を追い込む自然な帰結は一つしかない、と分かっている状態を描いているとすれば、(一つの解釈として)、見事だなあと。周りの人には分かる予兆が唐突に帰結に至る。本人にとっては唐突でも、突然でもないが。
※主人公グラス・シーモワは、途中から「若い人」と訳されいるのは何故なのか?違う人物ととっていたが、それだと話にはならず、話しが分からなくなるが。
