小説の極と呼ばるのが、大江健三郎の「万延元年のフットボール」。極を広げたと言われるのが、古井由吉の「仮名往生試文」
大江健三郎の「取り替え子(チェンジング)」を遅ればせながら読みました。
大江健三郎を知っている、伊丹十三を知っている、宮本信子も知っている、ミンボーの女、死者の奢り、飼育も知っている。
物語は、またもや森からの声。森の声、伊丹十三、光。
日常生活の冒険、洪水はわが魂におよび、万延元年のフットボール、我らの狂気を生き延びる道を教えよ、懐かしい年への手紙、同時代ゲーム、「雨の木」を聴く女たち、新しい人よ目覚めよ、水死小説etc
繰り返され抜いたテーマは、一定でありながら、読んでしまう。
モデルを明らかに想起させつつ、見事にずらされる。ツイストしてしまう。
なぜ、大江健三郎の世界に付き合い、共通の記憶を作っていることに、心地良さやら懐かさを感じているのかわからない。なにせ、作品は氏にとっても、僕にとってもフィクションてあり、現実を媒介としていない。誰のものでもない、と言える、テキストと呼ぶのか、それしか接点がなく、その理解に、全く共通点がないはずだから。なんとなく、と括るには関わりが深くなりすぎている。
※本文とは関係ありません