したいのだが、しなくてよい事の道は閉ざされ、今までは見えなかったものが見え、それは何となしに布石を打っていたりし、誠に不思議。


捨てる神あれば、拾う神あり。


※本文とは関係ありません。



法輪綸太郎氏の「一の悲劇」を読了。

何やら、横溝正史氏の「犬神家の一族」が浮かびました。

横溝正史の様な所謂本格は、松本清張の社会派の洗礼を受け、壊滅状態になりますが、島田荘司の「占星術殺人事件」により回復を始め、綾辻行人の「十角館の殺人」により蘇る。1950〜60年代の世相には横溝正史の作風は、古く感じ、進歩したと見られた社会派が合っていた。70年代に入り、進歩が鈍化し、それでいて豊かさがある社会になると、本格の作りがエンターテイメント、つまり絵空事、バーチャルリアリティとして読む余裕があり、作品に社会悪の告発、人間の悪を赤裸々に暴く等の必要は無くなり、小説は面白くなければならない、と言うメディアとしての使命が前景し始めた。


大江健三郎氏が「万延元年のフットボール」の後に売れなくったのは、氏の作品にある教養の需要、その効果が消えたらでしょうね。「懐かしい年への手紙」「『雨の木』を聴く女たち」「新しい人よ目覚めよ」「取り替え子」「水死小説」いささかも衰えは無い。