自我が弱いと、大丈夫か、とか、これでいいのか、と自身の在り方、生き方を聞いて、確認したりする。承認欲求。


何故、自分より他人の方が自身の事がわかるのか?

能力やら、技術ならば優越があるが、人生とは個別。

人は他人の人生には責任をとれない。


周りが善意の人、或いは全知全能ならば良いのですが、全知全能はこの世には無く、善意から来る言動が裏目に出ることだってある。


責任を取れるのは自身だけ。

良い環境に居続ける、と言う意味ではない。主体は自身だけ、と言うだけ。それ以上でもそれ以下でも無い。




★宮澤喜一氏は、日本国憲法の前文から、他国の善意による、と言う発想。隣国ならば合わせておく、と言う日本戦後の在り方を、アンモラルとしていました。

宮澤氏は、一般的には護憲派、ハト派としていましたが、「現実的」だっただけのようにも見えます。日米繊維交渉も、自由貿易の手前無理としてしまう、後に田中角栄が全省庁に近い権限を佐藤栄作総理に委任され超人的に解決しますが、天皇訪中を行うに際して、妥協として靖国神社に参拝していたりと、必要な事を必要なだけはする。新保守主義が流行し始めても、地方にまともな仕事を与える為には公共事業は必要だとし、遅れてきたケインジアンと呼ばれるのもやぶさかでは無く、エリートでしたね。



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紫陽花