セットアップ化からセレクトへ。
何でも、典型があり、外れると叱られかねないのが、昭和末期。
意味がありすぎる社会。作法やらマナーがつきまとう。
寿司とはこういうもんだ、お茶とはこういうもんだ、ラーメンとはこういうもんだ。
男とは女とは、と何でも「普通」があった。
型やら、スタイルがあり、外れると、まずかった。答え、正解がある社会。
それが、平成となると、ニューウェーブがまかり通るようになる。
寿司に、カリフォルニアロールが許容され、回転寿司が伸びに伸び、ラーメンに大勝軒、後に二郎系、家系が出、所謂東京ラーメンが駆逐される。街中華的なものは最近でこそ評価されていますが。
飲み会の、はじめの一杯(ビール)、も怪しくなり、いきなり参加者の好みになるのはさして長い伝統ではない。それまではビール人数分が当たり前。
全てが、選択が必要になっていくと言う流れ。セットアップが解体され、別売、多種が当たり前。
動作、作法も、切売り。
戦後は、製品を大量生産規格方式と呼ばれ、種類を絞り大量生産し、生産コストを抑える。会社の利益を極大化する。つまり、消費者の嗜好を絞る。犠牲にする、と言うか。生産者優先。昭和末期に完成形。製造業最適社会の完成。それは=経済の完成ではなかった。
儀式、マナーも、解体。「つきもの」を嫌う。例えば、入社とは、煮ようが燒こうが、と言う意味が薄くなり、会社とのパートナー、契約と言う要素が出てくる。入社したら、全てを捧げる必要はなくなり、転職を前提としていたり、キャリア・アップの場になり、会社には教育、出会い、交友、福祉と言う要素が職場、職縁に含まれていた事があとからはっきりしてくる。
選択に継ぐ選択。個人の選択の極大、と言う商業からの要請は静かに、革命的に進行し、高度経済成長で地縁にダメージを与え、職縁に置き換わり、農業から工業、田畑から工場に職場が変わり、世帯数を増やし、ついに世帯=家族を越え、職縁を無くし、お一人さまに至る。
少子高齢化と言う「自然」に商業が見事に破壊される。
人は歳をとる、と言う単純、明快な事実。
自然を支配し得たと見えた刹那。
肝心の売り先たる、人口の減少。再生可能の必要なものの際たるは人。
商業ベースに対抗し得る原理無き社会の末路。昭和末期にはあった当たり前を突き崩した結果。経済原理の呑み込まれていった事を進歩、成熟と見ていた浅薄さ。