養老孟司さんが、情報は変わらない、人は変わる、と話されています。

情報とは性質上、不変。当たり前です、解釈、意味付は変わりますが。


人は変わる。人とは自分を含む。

国破れて山河あり、であり、諸行無常。


全く興味のなかった事が重要事項になり、重要としていたものが無用の長物に。

その、意識変化が急激だと、どうにもならない。フリーズする。自分が他者となる。他者とはままならない。制御不能とまでは言わないが、それまで、ある程度把握していた、分かりきっていたと言う自己認識の変革を強いられるが、年々柔軟性を失う。頭が固くなる、対処出来ない。


老いては子に従え、と言う。


仮想空間、バーチャルリアリティとして、現実とは違うとしていたデジタルの世界を当たり前とし、その発想と付き合う必要がある。


今までもあった文字媒体やら映像媒体との付き合い方と、最近のデジタルの広大で、荒涼な世界に親しむ。まあ、オンラインゲームに親しみ、ネットから親交を深め、金融関係をオンラインに依存し、SNSで情報発信受信をする、辺りでしょうか。

それを現実と地続きとし、それでいてその差異を知りながら器用に往来する。

バイクシェアやらメルカリ、ブリン、PayPay、LINEを使う辺りが普通の在り方でしょうか。本来は日本から来たるべきデジタル時代に、デジタルネイチャーが発信していくのが筋でしょうが。

落合陽一の「デジタルネイチャー」を読むと、今のデジタル時代の創成期の天才達は半端ない思考の爆発をさせ、世界を変えたようです。

日本に来ると、デジタル化とは便利な道具くらいの発想でしょうか?しかも最近までデジタル化しなくても不便が無いので、デジタル化が遅かったと言う側面がありました。何の不自由もなかった。和魂洋才にもなっていなく、日本の携帯の映像受信(iモード)やら、携帯による金銭取引、デジタルカメラなど日本発信がありつつも、何ら統一性が無く、アイフォンの一撃からどうにも立て直せず、または日本発信で世界規格を作ると言う気概もソニーのイメージセンサー以外には見いだせない。


慣れていて使いこなせるものを止める、捨てる勇気が必要な場合がある。つまり意図的に、意識して、「低レベル」にならなくてはならない場合がある。捨ててこそ浮かぶ瀬あり。ある種のミーハー、節操のなさ。


※本文とは関係ありません。

ロールケーキをいただきました。キリマンジャロと。