我慢

と言う名の適応をする。
サラリーマンの給料は、「我慢料」と言われていました。
ある落語家の言葉が、忘れられません。

お金が無い、と答え、
「好きなことして、お金持ちなぞなるなんてことはありゃしません」
謙遜と嫉妬を避ける為の方便かも知れませんが。好きな事をしたら、報酬はもらえないと言う概念がありました。

だから、何事も続かない人を、我慢が足りない、とし、我慢をすればする程、お金を頂ける、と言う常識がありました.
頂くからには、我慢しなければならない、と。
 
楽しんではならない!

それが、オリンピックでのアスリート、北島三郎の「超気持ちいい」発言やらで、楽しんだ者勝ち、と言う概念が出来てくる。かつても、経験は物を言う、と言う事実はありましたが、ゲームの経験値、のように経験を感じる感性が出来てくる。

我慢と言う概念が薄くなり、環境に不満があるならば、選択で変えていく、と言うのが一般的になる。自己責任。格好良く言えば、自由意志。
我慢をする者同士と見ていた目の前に現れる人、縁は、自分がした選択の結果と見なされる。見なすとどうなるか?縁では無い!

間違えていた場合には、再選択する必要がある、となる。何せ、自分で選んだに過ぎないものだから。袖振り合うも多生の縁、とはならない。仏教の縁起説を元とする、縁、が絶対なものではなく、選択の途中の過渡的なものとなる。諦観は許されない?

職業選択の自由は、無限選択の可能性を持つものとなり、ジョブ・ホッパーが美化されかねない雰囲気。腰を据える、がよく分からなくなる。

より良い環境を求めるのが人情。それを、「分(ぶん)」が抑えるのが大人の嗜みでしたが、それを解き放つ。
何時までも未来を先取りする衝動、今が消えていた。

極端に少なくなった求人枠を、自己分析と言う自己規制を強いた時期がある。会社に見合っているか自分で分析しなさい、と。
自己を見つめた。結果、一括採用している会社には必ずしも興味が無いと分かる人が現れた。数十年の未来を保証出来る会社はそうそう無い!それがなければ魅力は無い。
採用の手間を減らす為だけの流行が内省を齎した。

我慢をするのが当然を共有していた時には、「下」を見る時には、共に我慢している同士、同情がありましたが、選択となれば、選択しない人、選択する能力が無いとなり、当然するべき事をしていない人と認識されかねない。そこには同情は無い。
修正資本主義から新保守主義へ、と言う流れと呼応していた。

最近は、行き過ぎが分かり、かなり「正常化」してきているが、リベラル、ラディカルが底流にはあった時代。

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