全てが絶対ならば。

全て選択の余地はなかった。
人は行動が阻害され、或いは欲求にブレーキがかからないと、何も感じない。まして、反省、検証はしない。
忍重の、無念の日々には、確かに何かは掴むが、選択の余地があった事を確認している。
選択の余地と自由意志こそが、「信仰」の証。
つまり、絶対の境地ではなく、決定論を避けている。
共産主義が世界の思想の潮流だった時に、アメリカ合衆国の共和党は一貫して、同意しませんでした。様々な思想的な闘争がありましたが、肝は、マルクス主義の、唯物的な史観。
所謂唯物史観。
「決まっている!」と唱え、人生を固定的に見る見方には、同意出来ない。神への冒涜!あり得ない。
なかなか不遇を受け入れるのは辛いものがある時がありますが、八方塞がりの時がありましたが、その時に、「あれはなんだ!」と言うタイプの人がいました、僕的にはあり得ない人生を送っている人、嫌いな人等々、が参考になりました。
「あれでも良いんだ」と(笑)
格好良く言えば、「受け容れる」「許す」と楽になりますね。
状況がよくなると、自分流、意外と狭い価値観で生きる事が出来たりしますが、わがままが通る訳です、逆境だと自身の選択の余地が無くなる、狭くなる場合があり、すると価値観は広がる、意に反して(笑)
※本文とは関係ありません。
