日本の国技 大相撲は、「試合」がメイン、更に言えば、試合(立合い)を見るお客様がメインなので、かつてはあった土俵を囲む柱を見にくいと言う事で無くし、詳細は基本行司が行うが、周りに審判を配し、ビデオ判定は当たり前。
行司が絶対だ、と言う考えは無い。そのような運営の仕方をしていない。
武道も、勝敗は大切だが、勝ち方も大切、そこに品性と呼ぶしかない態度も、自他共に見ている、問われる。
真善美、心技体。
これが、スポーツとなると、勝手が違う。
審判は、間違いない存在、逆らうな、となる。
「公正な」ルールがあり、それを特定な人だけがジャッジ出来る、と考えているよう。まさに、一神教的な運営。勝てばいい。単一価値。
わかりやすい、と言うメリットはある。
あと、イギリス発のスポーツには、天候等も管理する、克服する思想、特に球技においては必ず「敵(相手)」がいて、それがボールを仲介として、常に変化すると言う認識も通底しているような。
※本文とは関係ありません。
※今、今村昌弘さんの「屍人荘の殺人」を読んでいます。
荒唐無稽(パニック)な展開からの殺人事件。
これからどうなることやら。古典的な推理(探偵)小説は読み込んでいるので、過去の出尽きている感のあるトリックをどう用いるのかに興味がありますね。
本格派では綾辻行人さんの「十角館の殺人」が一番驚きました。鮮やかと言うか。
最近松本清張さんの「一年半待て」「形」「陸行水行」を読み返して、流石巨匠、となりました。