ある程度の快適さ、合理的な動きは、ルーティーンになる。
武道やスポーツの基礎には、日常の動きにはないものを組み込んでいるのは、それが後々必要になるからで、運動の所謂アップやら走り、武道ならば基本動作と言うのは意外や意外、究極の形を暗に示していたりする。つまりアルファでありオメガである。

後に必要になる事を先取りしている。
自然な動きの中には、無いものを入れている。
例えば、読書、例えば、探究心、例えば、当たり前とされている事に懐疑心を持つ事、権威を疑う、と言った事は、人によってはその人の人生の「自然な流れ」には含まれていないかもしれない。
かつて「教養」と呼ばれたものには含まれていた筈ですが、何時の間にかおざなりに。似た言葉で「修養」も。
どちらも、廃れ気味ですね。
何やら、「単純さ」のみが尊重されているような、幾重にも重なる思索やら経験則との無言の対話の中に日常がある筈なんですが。
※本文とは関係ありません。
