フレームなき世界は現世ではありません。
とだけ申し上げておきます。
どうにやっても
『枠』
があるということですね。
物を見る時、
人を見る時、
いずれにしても自分というフィルターを通してしか見れていないんです。
そのフィルターで見ている世界を
いわゆる
『現実』
と呼ぶ場合がやたら多いんです。
フィルターは自分も持っているし、やっかいなことに他人も持っているから大変なんですね(笑)
だから正確に見るにはかなり訓練が必要になってくるわけです。
仏教でいう
『正見』ですね。
2月、ある講演会で聞いた話があります。
『人間の目は100kB程度しか見分ける力がない。
画素数を上げたらより鮮明に見えているように脳が画像を加工しているだけで人間のレンズたる目はさほど細かいところまで見えているわけではないと』
こんな内容でした。人気教授の話に聞き入っていたわけです。(講演会の帰り銀座で美味しいものを食べて帰りました・笑)
そこから、アナロジー的に言えば
『現実』
それも
『不都合な現実』
も実は
自分が捉えている姿はしていない場合があるということですね。
だから修養の書は
『不動心』
を説くんですね。
外界は自分の描いている姿をしていない場合があり、それは個人的には大変ネガティブなものに感じる、映る時がある、と。怒りを覚え、ヤケになりたくもなる時もあるが錯覚の可能性があるんだぞ、と。
なおかつ刻一刻と時を刻んでいる。大概は時間と共に経験を刻んでいるということなんですが。
違う言い方をするならば
変化している。
つまり
諸行無常
ということです。
とだけ申し上げておきます。
どうにやっても
『枠』
があるということですね。
物を見る時、
人を見る時、
いずれにしても自分というフィルターを通してしか見れていないんです。
そのフィルターで見ている世界を
いわゆる
『現実』
と呼ぶ場合がやたら多いんです。
フィルターは自分も持っているし、やっかいなことに他人も持っているから大変なんですね(笑)
だから正確に見るにはかなり訓練が必要になってくるわけです。
仏教でいう
『正見』ですね。
2月、ある講演会で聞いた話があります。
『人間の目は100kB程度しか見分ける力がない。
画素数を上げたらより鮮明に見えているように脳が画像を加工しているだけで人間のレンズたる目はさほど細かいところまで見えているわけではないと』
こんな内容でした。人気教授の話に聞き入っていたわけです。(講演会の帰り銀座で美味しいものを食べて帰りました・笑)
そこから、アナロジー的に言えば
『現実』
それも
『不都合な現実』
も実は
自分が捉えている姿はしていない場合があるということですね。
だから修養の書は
『不動心』
を説くんですね。
外界は自分の描いている姿をしていない場合があり、それは個人的には大変ネガティブなものに感じる、映る時がある、と。怒りを覚え、ヤケになりたくもなる時もあるが錯覚の可能性があるんだぞ、と。
なおかつ刻一刻と時を刻んでいる。大概は時間と共に経験を刻んでいるということなんですが。
違う言い方をするならば
変化している。
つまり
諸行無常
ということです。