昨日のニュースで知った悲しい訃報

 

南こうせつとかぐや姫の名曲、「神田川」を作詞された喜多条忠さんがお亡くなりになったとの事

 

 

「神田川」は1973年にリリースされたフォークソングの名曲です

 

1972年にシンガポールから本帰国した中学生の私にとって、心細い気持ちを癒してくれたのがギターの弾き語りで歌う当時の四畳半フォークでした

 

この「神田川」では学生の心情を朴訥に歌う雰囲気が多くの若者の琴線に触れたのだと思います

 

高校に入学してからお年玉とかお小遣いを貯めて憧れのフォークギターを買い求め、雑誌GUTSのギタータブ譜で一生懸命に練習した日々を思い出しました

 

そして喜多条さんのご冥福をお祈り申し上げます

 


●今でも当時のギターを現役で使っています

 


以下は私が子供のころにシンガポールから本帰国した頃の話題です


それは1972年の3月

日本人学校 中学部二年の三学期を終えたタイミングで、私の家族四人は日本へ戻って来たのでした

三月は海外に駐在する人達にとって別れの季節

本帰国する知人家族をパヤレバー空港で見送るのが毎年恒例の儀式みたいなものになります

「今日は誰々さんの家族を見送りに行って、明後日は誰々くんの家族を…」

というように何回もパヤレバー空港へ見送りに行くことになる年もあり、空港でアナウンスされる"Paging Mr. Suzuki..."という呼び出し声が耳にタコが出来るほどでした(笑)

そう言えば、最近 Paging っていう空港アナウンスを聞かなくなったような


そうしたお見送りにも自分が見送られる番がやって来るとは


私の家族はシンガポールから香港へ飛び、一泊してから日本へ戻るという旅程でした


1972年の香港は啓徳空港に降りたMSA機(Malaysia Singapore Airlines)からターミナルへ移動して

イミグレーションを通過して入国ゲートを出ると、そこには父の会社の関係者が迎えに来てくれていて、ホテルへチェックインする前に香港観光に連れて行ってくれたのです

九龍側から香港島へフェリーで渡り、ビクトリアピークまで登山電車に乗って登りました

夕方の黄昏の時間だったので薄暗くなった香港島に明かりが灯り出した街を見下ろす雄大な景色は、シンガポールでは見ることが出来なかったものです

夕食は九龍側のホテル上階にある香港島の夜景が眺められるレストラン

私はその景色を見ながら、日本に戻ってから始まる生活について考えていました

まだ経験したことのない日本の中学校での生活

長袖、長ズボンの詰襟の学生服を着て学生帽を被るという事に、どれだけ憧れたことか

一年中が真夏のシンガポールでは短パンにTシャツというスタイルが子供のスタンダードな衣服

子供用の長ズボンというモノは既製服として存在していなかったので洋品店へ行っても売っていない

テイラー(洋服の仕立て屋)へ行って採寸してもらい生地を選んで縫ってもらう、というテーラーメイドのズボンを作ってもらっていたのです

そんな背景から、日本人学校に新しく出来た中学部には制服を取り入れて欲しい、という要望を出していたのでした(汗)


新しく住む家から日本の中学校へ通学する日がやって来ました

私は年齢に応じた三年生として公立中学へ通えましたが

姉は英国系インターナショナルスクールで学んでいた為、公立高校は受け入れてもらえず私立高校へ一学年落として辛うじて編入してもらえたのでした

まだ帰国子女の受入れ体制が整っていない時代でした

シンガポールの日本人学校は当時でもカリキュラムは日本に合わせた内容だったので、日本の中学校三年の授業は何も困ることはありませんでした

しかし、「洋行帰り」みたいな目で見られたり「異質を排除」という雰囲気を感じたりと、学校での居心地はあまり良くはありませんでした

英語の授業で「姓名」についての話題があり、苗字と名前について英語で何と言うか? と英語の教師がクラスの生徒に質問しました

なぜか誰も正確に答えられなかったので、「シンガポール帰りの○○君は判るだろ?」と私に答を求めて来たのです

私はごく普通に「サーネームとヨーネームでしょ?」と発言すると、その教師は驚いたような表情で

「苗字はLast Nameで名前はFirst Nameと言うんだよ」

と勝ち誇ったように言うのです


えっ? 自分がいつも言われていたのは間違っていたのか?

と訳が分からなくなりました

その授業が終わってから、小さなヒソヒソ声で「何だ、あいつの英語も大したことないんだな」みたいな誹謗にも聞こえる声が聞こえました


その日の放課後に先ほどの英語の教師から職員室に来るように言われて行ってみると

「調べてみると、君が言ってたのは英国式のSURNAMEで、日本では米国式の英語を教えているから…」と言い訳っぽいことを言われました

「ただヨーネームというのは無い」と言うので

「貴方の名前、つまりYour Nameということですけど…」

と答えると、なんだか言い返したような反抗的態度と取られたのか

「とにかくLast NameとFirst Nameだからね!」と釘を差すような言葉で締めくくられました

おそらくその教師の面子を潰したのでしょう

でも、私にしてみたら何故怒られるのか意味不明でした

そんな出来事があった後、その英語の教師は私への向かい方がキツかったように感じました

それでも少なくとも英語は苦労することなく、いつも良い成績を取っていました

その頃の中学三年の英語は、シンガポールで生活した三年間の日常会話レベルで充分だったのです

このようなやり取りから、私の日本での中学三年の生活は暗かったか、というとそうでもありませんでした

物怖じすることが無い、という性格に鍛えてくれたのもシンガポールでの生活だったからです

日本軍による占領時代を生き抜いたシンガポール人との交流を日常的に行なっていた子供時代

受け入れるべきことと、主張すべきこと

そんな複雑な社交術を知らない間に身に付けていたのでしょう

気が付くとクラスの仲間たちの中に溶け込んで、楽しい学生生活を過ごしていたと思います

あの英語の教師とも卒業する頃には仲良くなっていました(笑)