こんにちは、mimi♪です。

リトルは私の息子のあだ名笑

 

最近リトルの「勉強」に追加したことがあります。

それは「土日は少し難しい本を読んであげること」です。

 

本は理科ダマンとか物語とかリトルは好きなので読むこともありますが、何か足りない・・・・と思っていました。

それは知識や語彙力。

 

そりゃ小学一年生だし、私のリトルだから・・・・・というのはあるものの、もう少し知識を増やしていきたいなということで

土日だけは少し難しい本を読むようにしています。

 

その中で最近読んでお勧めだったものを紹介ウインク

 

2024年からお札が変わりまよね。それに伴い以下の3冊を読んでみました。

「新紙幣ウラオモテ 渋沢栄一と一万円札物」



「新紙幣ウラオモテ 津田梅子と五千円札物語」


「新紙幣ウラオモテ 北里柴三郎と千円札物語」


いやぁ、知らないことが沢山ある。私もすごい勉強になりました。
 
難しいお話も沢山書いてあるけど、読みながらリトルと色々な事について話をしました。
 
私たちがこうやって、生活できるのも昔色々貢献してくれて人のおかげ。
(でもみんな頭良すぎでお金持ちだけどね笑い泣き
 
どの人にも共通しているのが、自分の好きなこと、信念があったのかなぁ・・・と思う。
 
興味がある人は是非ウインク
1番下に簡単に要約してみた笑い泣き




 
以下少しだけ簡単にまとめたもの
===
<渋沢栄一 1840-1931>
●お金は10,000円 裏には「東京駅丸の内駅舎」が描かれている
●資本主義の父と言われた実業家
 ‐13人兄弟だったが、10人は幼いうちに亡くなってしまう。裕福な家に生まれた栄一は5歳から学問や読書を始める。13歳で一人で染物材料を買いにつけにいくようになり、商売を学ぶ。
 ‐フランスに行った栄一はパリ万博で、上記期間やエレベーターなどの世界各国の最新の発明品に目を見張る。日常生活でも病院や鉄道、ガスや水道といった設備が整っていて驚いた。商人と軍人が対等の立場で会話をしていることにも驚く。栄一は日本の発展には身分にかかわらず、自由は発言が許され、実力のある人はきちんと評価されることが必要だと強く思った。
 ‐栄一がフランスに渡ってから1年半が過ぎたころ、日本では慶喜が幕府の将軍の地位を捨て、駿府藩(すんぶはん)にいた。慶喜がいる駿府藩(すんぶはん)で事業を成功させたいと考えた栄一は帰国後の1869年に駿府藩(すんぶはん)と協力して、商法開所を設立。
 ‐政府から政府の財政をつかさどる民部省に入るように、大隈重信に説得されて民部省で働く。地租を米からお金に変えたり、銀行がお札を発行する仕組みを整えたりした。
 ‐日本発の民間銀行、第一国立銀行を開業した。金融業界だけではなく、損害保険会社、鉄道会社、ガス、電気会社などさまざまな会社の設立を育成に関わる。
 ‐教育や医療などの社会事業にも貢献。英語、法律、歴地など多く学べる場を作ろうと考える。商業を専門に教える学校の商法講習所(後に一橋大学へと発展)の管理も行った。
 ‐経済的に苦しむ人々を救うことは国のためになると政府に訴えた。1929年に生活に困る人々を助ける救護法が作られます。実際、この救護法が施行されたのは栄一がなくなってから2か月後のことだった。
 
裏話1:大久保利通は栄一の上司。財政事情を理解しない、大久保と意見が食い違い、対立。結局大蔵省を1973年に辞職してしまう。
裏話2:幼いころから大食漢だった。
 
<津田梅子 1864-1929>
●お金は5,000円 裏には「万葉集」に登場するノダフジが描かれている
●日本に初めて近代的な女子の高等教育を広め、現在の津田塾大学を創立した人
 ‐6歳でアメリカに留学する。日本初の女子留学だった。
 (幕府の通訳の子として江戸(現在の新宿)に次女として生まれる。
  父の津田仙は生まれてすぐに、幕府の通訳として福沢諭吉らとアメリカに渡る。)
 ‐11年間アメリカで過ごし日本に帰国した際、古いしきたりが残る日本に対してショックを受ける。日本での女性の地位の低さを痛感した。そして日本女性のために高等教育の学校を作る夢をかなえるため、再びアメリカへ留学する。
   -女子英学塾を開校する
  (日本に帰国し、教育者として勤めた。)
 ‐学校開設のためにアメリカでは友人たちが設立資金の調達に力を尽くした。最初は10人ほどからすうたーとした生徒の数も翌年の春には40人になった。
 ‐教師として教壇に立たなくなった後、脳出血で体が不自由になり入退院を繰り返す。
裏話1:生涯非婚を近い、縁談を断った。
裏話2:3度目の渡米の際、ヘレンケラーと会見する。自筆の手紙を受け取って心を動かされた。その後、フローレンス・ナイチンゲールと会見した。ナイチンゲールから花束をもらい、一部を押し花にして日本に持ち帰った。
   (昔は恋愛結婚は認められなかった。恋をする相手と結婚したかった梅子は独身を貫いた)
 
<北里柴三郎 1853-1931>
●お金は1,000円 裏には「葛飾北斎の絵」の富嶽三十六景が描かれている
●ペスト菌や破傷風の治療法を発見した「日本の細菌学の父」と呼ばれた人
 ‐庄屋のもとに生まれた。より良い環境で勉学にはげみ、孤独な環境でも負けない精神を育てるために、幼いころから親戚の家に預けられる。
 ‐新政府の軍人か政治家になるつもりだったが、父に医者になることを勧められ、自らの思いを胸に収め、熊本医学校に入学した。
 ‐熊本医学校で、オランダ人のマンスフェルト医師と出会う。オランダ語を知っていた柴三郎は会話ができた。実習の中で覗き込んだ顕微鏡の中に広がる組織や細胞の奥深さに感動し、医学の面白さに目覚める。
 ‐ドイツに留学し、コッホの元で学ぶ。留学は5年。その中で1889年に世界初の破傷風菌の純粋培養に成功した。
 ‐免疫抗体の発見も行う。
 ‐働く場所がなく半年もたってしまう。その話を知った福沢諭吉は研究所の設立の費用と研究費用まで出してくれた。
 ‐明治政府からペスト調査を命じられ1894年の6月12日に香港へ到着。その中で原因となるものを発見した。
 ‐慶應義塾の塾長が「慶應義塾大学に医学科を新設したいので、力を貸してほしい」と相談を持ち掛けられた。福沢諭吉はなくなってしまっていたが、今こそ諭吉先生に恩返しをするときだと思い、準備を進める。
 ‐1916年に大日本医師会がつくられ、初代会長となった。 
裏話1:東京医学校では反抗的で要注意人物にされていた。
裏話2:1892年に帰国したものの、東京大学には戻れなかった。(柴三郎の性格が原因・・・)
裏話3:敵が多かった。森鴎外とも対立をし続けた。
 
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