ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」 -2ページ目

ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

ロンドン・東京そしてNYといつの間にかいろんなところを転々とそしてまた東京に。海外なんて全く興味なかったし今もないという予想外の人生でした。今は東京に戻りしばらくお休みしていましたが少しずつ再開してみようかと思ってます。よろしくお願いします

マスクの転売は禁止すべきである。という声が大きくなり実際に転売禁止が法制化された。

 

あほか?と僕は言いたい。

 

そんなことをするからマスクがむしろなくなるのである。

 

むしろ転売も奨励するし小売店がマスクの値段を受給を一致するレベルまで釣り上げて販売すべきである。そういったことを世の中的に公認すべきでもある。

 

いろんな意見があるだろうがマスクの使い方は非常に難しくマスクを自分の予防に使うのはほぼ不可能に近い。いわれているように症状がある人間が人にうつさないために使うのには有効らしい。ただ新型コロナは多くの場合に無症状なので症状が出てからマスクをしても人に感染させないことにどれくらい役に立つかはわからない。それが大前提である。

 

そんな状況ではそもそもマスクの効果は非常に薄いと言わざるを得ないだろう。一方で医療現場のマスク不足は深刻である。また医療現場以外でも介護などの業界でも同様の状態であることが推測される。マスクがなければ業務が成り立たない業界がたくさんありそれらの業界でコロナが蔓延すれば我々の生活も危機になってしまう。だから僕に言わせれば一般の人はマスクなどすべきではない。

 

仮にマスクが1個1000円になればどうなるだろうか?本当に症状があって人にうつしたくない人と仕事の都合上どうしても必要な人以外はマスクなどしなくなるだろう。そして1個1000円のマスクを買い占めて転売する。そこまでリスクをとる人間がどれくらいいるだろうか?もちろんそれでも転売する人間はいるだろうが数自体は相当減るはずだ。またよく言われている老人が朝からドラッグストアやスーパーに並んでマスクをひたすら買っているということもかなり減るだろう。

 

よってマスクは本当に必要な人に届くようになるし、需要が減退することによって一般向けのマスクの生産ラインを医療用マスクの生産に回すことができる。(基本的に生産設備は似たようなものであり転用はそれほど難しくないと仮定している。しそうであることが想像できる)。またマスクの値段が上昇すればマスク業界に新規に参入する企業にとっても参入が容易になる。わからないが1個1000円なら手作業で作ってもそれなりの利益が出る可能性すらありそうだ。

 

有名人や政府がマスクを調達して配布とか寄付とかいっているがこれもすでに保有しているものを渡すのならともかく企業に頼んで作ってもらって従来の値段で買い取って配布しているのならばむしろ上位のような市場機能に基づく需給の一致と生産の調整を阻害しているだけである。

 

と書いていたら1住所あたり2つマスクを配るとかいう愚かな政策を政府はやるらしい。全く違う。医療現場に配る。その生産を医療用マスクに回す。という方が重要だ・・・・。

 

マスクの転売や高値での販売は禁止してはならない。本当はむしろ奨励すべきことなのである。同様のことはトイレットペーパーやティッシュペーパーにも言える。トイレットペーパーなどは本当に需要が上がっているはずがないので高値につりあげれば誰も買いだめしなくなるはずですぐに店頭に並ぶようになるだろう。高いかもしれないが1か月に何個も使うものではない。誰もが当座のものを一つだけ買えばよい。高値に吊り上がることで買い占めはなくなる一方で高く売れるならメーカーは増産するだろうからすぐに値段は落ち着くはずだ。実際は上畑草なりますからと呼びかけるよりも値段を釣り上げてしまった方が価格を通した調整がすぐに起こる。

 

とにかく人間はこういう状況になると科学や論理的な思考というのができなくなるらしい。仕方ないが悲しい限りである。基本的な経済学や論理的思考を多くの人が大学で学んだはずなのに現実社会に応用できないのだ。

 

人は何のために生きているのだろうか?という重要なテーマを今回のコロナ騒動は突き付けてくれている。いい機会だと思う。

 

人はかくも簡単に死ぬのか?そうである。70歳以上ともなると年間に50万人は死んでいる。肺炎で亡くなる方は年間12万人。インフルエンザも数千人とかいうレベルでいるわけだ。餅で死ぬ人も1月だけでも例年1000人程度はいるらしい。(新型コロナの死者はまだ70人程度だが…)

 

だが人の命とはかくもはかないものなのだ。野村監督も亡くなった。星野監督もがんでなくなった。千代の富士もなくなった。感染症以外の理由でなくなった有名人もこの1年でどれくらいいただろうか。志村けんは子供のころから好きだった。だから悲しい。だが冷静に考えれば一人の有名人が不幸にも今回のコロナでなくなったがこの1年振り返ってみればそれ以外の理由で亡くなった方は有名人でもたくさんいる。コロナは憎いが、同様に心筋梗塞も老衰もコロナ以外が原因の肺炎もガンもすべて憎いのである。

 

ただ人はいつか死ぬ。老いてそれでも生き続ける苦しみもそこにはあるはずである。

 

死んでもいいと思って生きてきた期間のほうが個人的には長かったのだが最近は意外とそうでもない。もう少し生きたいなあと思う方がなぜか多い。これくらいの年になるとそういうものなのだろうか。

 

ただ言えるのは人は生きるために生きているのではないということだ。そして生きていればいつ死ぬかはわからない。まして年を取ればそれが現実だ。

 

だから命の価値は限りなく高い。が、それよりも大切なものもあるということだ。そしてただ生きていればいいのか?といえばそうではないはずだ。生きる目的、やりがいなども必要だろう。暖かい家庭、や居場所も必要だろう。おいしい食事やお酒、あるいは趣味に費やす楽しい時間も必要だろう。それでこそ人は生きれるというものだ。それがなければ動物とは違う人間は本当に生きていることが楽しいと思えるのだろうか?生きていきたいと思うのだろうか?

 

コロナはたしかに油断はしてはならない。だが日本ではせいぜい70人しか死んでいない病気だ。「生きる」だけが目的ならばコロナを防ぐために徹底的に自粛し外出禁止をするのもありだろう。戦いは数年に及ぶ可能性もあるのだ。それが可能なのか?そして医者の仕事は人を「生きさせること」であるのだからその目的にそって非常に慎重に提言をするのは当然だろう。(もちろん最近はようやくQQLのような考え方も広まっていると思うが)

 

だが、人は「生きること」が目的ではないのである。それが現実なのだ。ただ生きればいいというものではない。生きてこそその先に楽しみがあるというのは正しい。だが、楽しみや目的がなければ生きれないのもまた人間である。

 

だとしたら、多少感染者が増えた程度で安易に自粛やロックダウンなどというべきではないだろう。もちろん、1か月の我慢で感染拡大が収まるのならそれでもいいだろう。だが専門家の皆さんも長期的な戦いになるというように自粛やロックダウンをしてもまた経済活動を再開すれば感染は拡大する可能性が高いというのが現実なのである。1年も2年もひたすら自粛し続けろというのだろうか?それこそ「生きるために生きる状態」に人は陥ってしまうだろう。

 

新型コロナの自粛にゆるみがみられるなどと専門家や政治家が上から目線で語っているがそれは間違えている。人間は活動をしそこに生きがいややりがい、楽しみが見いだせないと生きていけないのである。人とのつながりを感じないと生きていけないのである。それが人間の本質でありそれが人間の生きる目的なのだ。もちろん真実は生物として生きるために生きているだけのかもしれない。だが少なくとも見かけ上は人間は生きることに意味を見出してこそ、他者とのつながりを感じてこそ生きていけるのである。

 

幸いにして最初に書いたように新型コロナをそれほど怖い病気では一切ない可能性が今のところは高い。もちろんリスクはある。だがそのリスクも両サイドだ。ひょっとしたら無症状の感染者がすでにやまほどいて致死率は今思っているよりも圧倒的に低い可能性もあるのだ。

 

おそれくそういったことも判断して自粛するほどのことはないと多くの人が感じていたというべきで、専門家の知見や政治家の思惑よりも一般大衆のこの感覚が正しい可能性も大いにあり得るのである。

 

すべてを総合的に判断すれば人は生きるために生きているのではなく新型コロナがそれほどリ怖い病気でもなく生きることそれ自体がリスクの塊であり人はいつか死に向かうのであればやはり自粛要請というのはどう考えても間違えているというのが僕の結論である。

 

ロックダウンだ!緊急事態宣言だ!という人が多い…。はあ…。

 

だが現状ではロックダウンをした当時の欧州諸国の状態と比べても新型コロナの感染は拡大してないし死者も少ない。

 

なんだかロックダウンしたら会社を休めると勘違いして叫んでいる人も多そうだなとネットを見ていると思うのである。

 

ロックダウンや非常事態宣言には明らかなマイナスの効果がある。経済が大幅にスローダウンしGDPの成長率は10%以上は低下するだろうということだ。良くも悪くも多くの企業や事業主は借金をして事業を回している。そのことの是非はいろいろあるだろうがそれが現実である。当然売り上げが減れば資金がショートする。従業員の給与や賃料などが払えなくなる。貸付制度があるとはいってももともと財務内容がよくなかったり担保がない会社や事業者の場合は容易に融資は受けられないのではないかと推測する。多くの倒産や廃業が発生することは想像に難くない。

 

もちろん、社会的ひずみも大きくなる。家庭で過ごす時間が増えることでDVや児童/幼児虐待、アルコール中毒、運動不足に起因する各種の成人病、また精神病の増加も容易に想像ができる。上記の経済的苦境が自殺を含めてこれらの増加に拍車をかけるだろう。これらは社会の中心の生産年齢人口や若者の間で多く起こるだろうから社会的に与える負の影響は大きいだろう。

 

またフランスなどでも言われているが学校の休校によって教育格差が広がり始めているというのである。当然だ。教育熱心な親は子供に家で勉強するようにいうだろうし塾などもしっかり活用するだろう。一方で教育熱心でない親の場合はほったらかしだろう。当然教育格差は広がっていき学校が再開したときには大きな差がついている可能性が高い。3年間のうちの数か月というのはかなりの差をつける要因になる。挽回するのは可能だろうが一度周回遅れになるとやる気そのものがそがれてしまう可能性が高いので容易ではない。

 

一方でロックダウンの効果とはなんであろうか?

 

感染拡大を一時的には抑えることはできる。これは間違いないだろう。だがロックダウンが解除されて活動が戻るとまた感染が拡大し始める可能性が高い。結局、集団免疫を構築するまでは感染は終わらないのである。それほど大きな効果があるかは正直疑問である。

 

医療崩壊を防ぐためだ。という意見もある。それは確かに重要だ。だがこれも疑問がある。まず第一に軽症者も現在は入院している。ロックダウンという経済や社会に大きな影響を与える政策をとる前に軽症者を自宅隔離やなんらかの施設で隔離すれば医療崩壊への時間は稼ぐことができる。

 

また人工呼吸器が足りないという意見もある。正しいだろう。だから時間を稼いで人工呼吸器を増産せよというがそれほどハイペースで増産できるものなのだろうか?ロックダウンを1か月したとしてどれほど人工呼吸器が増産できるのか?人工呼吸器を生産する工場でコロナ感染者が出るかもしれないのにだ。同様のことは医療用のマスクや防護服にも言える。また人工呼吸器がかりにある程度増産できたとしてもそれを使いこなせる人間を1か月やそこらで大量に養成できるとはとても思わない。また仮にコロナが爆発的に感染拡大しなかった可能性も十分にあるいえるわけだがその時の財政的負担はだれが負うのであろうか?

 

ロックダウンしてもスーパーや医療関係者、鉄道や電力、ガス、金融業などの関係者は働き続けないといけない。そういった人たちは電車で普通に通勤するだろう。すべての職種で在宅勤務は不可能だ。それらの職種の人は引き続きコロナ感染リスクにさらされる一方でコロナ感染リスクから完全に守られる人たちがいる。これは不公平なことではないだろうか?

 

まだまだいろいろとあるが、ロックダウン自体の問題は非常に多く甚大な被害を社会や経済にもたらす。が一方でその対価として得られる効果は非常に限定的もしくは不透明である可能性が高い。実際、安心安全福祉の国としてあがめられる(実際はそうではない)スウェーデンはそのロックダウンをしていない。

 

ロックダウンしなくても……ルールに従う独居の多い国の新型ウイルス対策

 

いずれにしても安倍政権はおかしなことばっかりやっているが非常事態宣言をかたくなに拒んでいるのは唯一といってもいい功績だろう。

 

もちろん、日本では欧米のような方式のロックダウンは法律的に不可能でもあるし、頻発する自粛要請で事実上のロックダウン状態になりつつあるのも事実ではあるのだが。

 

医学や疫学の観点からは人を生きさせる、疫病を蔓延させないという目的のためには何でも手段は使うべきとなるだろう。医者はすべての患者に向き合わねばならないという風になるから医療崩壊が怖いとなる。それはもちろん、正しい。だがそれは社会全体のある一部部分の最適である。医学関係の方も比較的幅広い視野を持たれてはいると思うが、それでもなお経済社会への甚大な被害を考えるならば、ロックダウンよりも先にトリアージその他を行う方がさきである。その意味で軽症者や疑いだけで医者に行くなというのは正しいのである。また人工呼吸器があれば必ず助かるわけでもないしそのあとほQQLが保証されるわけでもない。

 

そして経済が悪化し税収が減ったり、人々が貧しくなれば医療に回るお金は確実に減るのである。現状では1か月経済を止めただけでも大量の倒産が起こる可能性も否定できない。それほど企業の借金も膨らんでいる。そのような状態になったほうがますます医療崩壊は近づくのである。

 

以上のように総合的に考えればロックダウンは百害あって一利なしとでも言っていいほどの愚策である。