人は何のために生きているのだろうか?という重要なテーマを今回のコロナ騒動は突き付けてくれている。いい機会だと思う。
人はかくも簡単に死ぬのか?そうである。70歳以上ともなると年間に50万人は死んでいる。肺炎で亡くなる方は年間12万人。インフルエンザも数千人とかいうレベルでいるわけだ。餅で死ぬ人も1月だけでも例年1000人程度はいるらしい。(新型コロナの死者はまだ70人程度だが…)
だが人の命とはかくもはかないものなのだ。野村監督も亡くなった。星野監督もがんでなくなった。千代の富士もなくなった。感染症以外の理由でなくなった有名人もこの1年でどれくらいいただろうか。志村けんは子供のころから好きだった。だから悲しい。だが冷静に考えれば一人の有名人が不幸にも今回のコロナでなくなったがこの1年振り返ってみればそれ以外の理由で亡くなった方は有名人でもたくさんいる。コロナは憎いが、同様に心筋梗塞も老衰もコロナ以外が原因の肺炎もガンもすべて憎いのである。
ただ人はいつか死ぬ。老いてそれでも生き続ける苦しみもそこにはあるはずである。
死んでもいいと思って生きてきた期間のほうが個人的には長かったのだが最近は意外とそうでもない。もう少し生きたいなあと思う方がなぜか多い。これくらいの年になるとそういうものなのだろうか。
ただ言えるのは人は生きるために生きているのではないということだ。そして生きていればいつ死ぬかはわからない。まして年を取ればそれが現実だ。
だから命の価値は限りなく高い。が、それよりも大切なものもあるということだ。そしてただ生きていればいいのか?といえばそうではないはずだ。生きる目的、やりがいなども必要だろう。暖かい家庭、や居場所も必要だろう。おいしい食事やお酒、あるいは趣味に費やす楽しい時間も必要だろう。それでこそ人は生きれるというものだ。それがなければ動物とは違う人間は本当に生きていることが楽しいと思えるのだろうか?生きていきたいと思うのだろうか?
コロナはたしかに油断はしてはならない。だが日本ではせいぜい70人しか死んでいない病気だ。「生きる」だけが目的ならばコロナを防ぐために徹底的に自粛し外出禁止をするのもありだろう。戦いは数年に及ぶ可能性もあるのだ。それが可能なのか?そして医者の仕事は人を「生きさせること」であるのだからその目的にそって非常に慎重に提言をするのは当然だろう。(もちろん最近はようやくQQLのような考え方も広まっていると思うが)
だが、人は「生きること」が目的ではないのである。それが現実なのだ。ただ生きればいいというものではない。生きてこそその先に楽しみがあるというのは正しい。だが、楽しみや目的がなければ生きれないのもまた人間である。
だとしたら、多少感染者が増えた程度で安易に自粛やロックダウンなどというべきではないだろう。もちろん、1か月の我慢で感染拡大が収まるのならそれでもいいだろう。だが専門家の皆さんも長期的な戦いになるというように自粛やロックダウンをしてもまた経済活動を再開すれば感染は拡大する可能性が高いというのが現実なのである。1年も2年もひたすら自粛し続けろというのだろうか?それこそ「生きるために生きる状態」に人は陥ってしまうだろう。
新型コロナの自粛にゆるみがみられるなどと専門家や政治家が上から目線で語っているがそれは間違えている。人間は活動をしそこに生きがいややりがい、楽しみが見いだせないと生きていけないのである。人とのつながりを感じないと生きていけないのである。それが人間の本質でありそれが人間の生きる目的なのだ。もちろん真実は生物として生きるために生きているだけのかもしれない。だが少なくとも見かけ上は人間は生きることに意味を見出してこそ、他者とのつながりを感じてこそ生きていけるのである。
幸いにして最初に書いたように新型コロナをそれほど怖い病気では一切ない可能性が今のところは高い。もちろんリスクはある。だがそのリスクも両サイドだ。ひょっとしたら無症状の感染者がすでにやまほどいて致死率は今思っているよりも圧倒的に低い可能性もあるのだ。
おそれくそういったことも判断して自粛するほどのことはないと多くの人が感じていたというべきで、専門家の知見や政治家の思惑よりも一般大衆のこの感覚が正しい可能性も大いにあり得るのである。
すべてを総合的に判断すれば人は生きるために生きているのではなく新型コロナがそれほどリ怖い病気でもなく生きることそれ自体がリスクの塊であり人はいつか死に向かうのであればやはり自粛要請というのはどう考えても間違えているというのが僕の結論である。