ちょっと面倒な間柄
今回の震災について、
自分なりの落とし前をつけるために書きます。
高校の同級生であり、野球部のチームメイトであるY君が
赴任先の女川町で被災しました。
ご遺体はまだ見つかっていません。
一緒に過ごした高校はイマ風にいえば自己責任の校風で、
ヒマなのか忙しいのかわからない時間が流れていました。
私立文系クラスで一緒に選択した音楽の時間には、
カノンをBGMにしながらだいたい寝ていました。
殺伐とした昼休みの食堂では、カツどんを頼んだ彼が
僕にカツだけを取られて本気で怒ったこともあった。
練習帰りによく寄った連坊小路のパン屋「丹野」。
電車通学の彼は、
駅までの所要時間を計算しながらパンを食べていました。
汗臭く泥だらけの部室と桜並木に囲まれたグランド。
1年のうち360日くらいは会っていたでしょう。
手足は細いくせにお尻が大きいスタイルで、
ちょっと腰高な守備。
打撃センスに優れた左打ちで、
軟投派のピッチャーには固め打ちする一方、
速球派には、まったく手が出ないような淡白さがありました。
あえていうなら、特に親しい仲ではなかったかもしれません。
ただ、あの青臭くて濃密な時代に、
圧倒的な量の時間を共有していたことは事実です。
量は質を吹っ飛ばす。
親しいというには照れくさく、
もちろん知らないわけではない関係。
ちょっと面倒で他人には説明しづらい間柄です。
今回の彼の被災については、
運命というものを考えざるを得ません。
亘理町で生まれ育ち、仙台の高校から大学は東京へ。
卒業後は仙台に帰って銀行に就職しました。
彼が自身初めての支店長として
女川に赴任したのは2010年6月です。
それまでは仙台の本店に勤務していました。
たまたまあの時、彼は女川にいた。
そして被災した。
ゴールデンウィークに亘理町へ行きました。
ひっそりとした町並み、人もあまり見かけません。
何ができるわけでもないのですが、
彼の実家が営む味噌・醤油の醸造所に足を運びました。
歴史のある土蔵が崩れかかっています。
小売もしている店舗はお休みでした。
(お店の中に声をかけようか…)
(そこで、お前は何をいうのだ?…)
結局、隣にある亘理神社で参拝しただけです。
帰りの電車を待っている駅で、
東京からのボランティアを見かけました。
「今日はこれで帰りますが、
ゴールデンウィーク後半が本番です」。
地元と思しき人と話している彼は逞しく見えて、
何かを成し遂げたような輝いた目をしています。
なぜか僕は、彼を直視できませんでした。
「おまえもやれよ」と言い出されるのが
怖かったのかもしれません。
まさにその通りです。「何やってんだ、おまえ」。
Y君の実家ではネット通販を早々に復旧させていました。
帰京してから味噌と醤油、なめ味噌などをオーダーしたところ、
家業を継いでいる彼の兄上からメールが届きました。
僕がY君の同級生であることを兄上は知りません。
メールには、全国からの励ましに対するお礼と、
亘理町の被災状況を数字を交えながら
詳しく述べられていました。
冷静かつ客観的に書こうという意思が感じられる文面です。
兄上がY君の消息確認のために
寝る間を惜しんで動いていることは
地元の友人から聞いて知っています。
その心中いかばかりか。
「いま自分たちに何ができるのか」
「いまできることをしていこう」
さまざまな意見や考え方が出ています。
幸いなことに、僕たちは生きています。
まずは、この幸せを正面から感じよう。
政治もメディアもボランティア意識さえも、
時間とともに風化していくことでしょう。
でも僕たちの「ちょっと面倒で他人には説明しづらい間柄」は、
僕が生きている幸せを感じている限り風化しない。
--そう思えるようになりました。
もしかしたら僕の残りの人生は、
Y君が僕に託した時間なのかもしれません。
もしそうなら、どうするのか。
好きなことをまっとうする人生を送ろう。
好きななことで、笑ったり泣いたり怒ったりしよう。
我田引水かもしれませんが、そう決めました。
長々と書いてしまいました。
ブログでもツイッターでも、
二度と震災のことは触れません。