17人目
小畠山城守虎盛
おばたやましろのかみとらもり
18人目
小幡豊後守昌盛
おばたぶんごのかみまさもり
小畠山城守虎盛
こちらの方はとても強かったそうで、「鬼虎」と呼ばれることもあったそうです。
71歳で病死するまでに合計36回の合戦に参加し、貰った感状36枚。41箇所もの傷を受けたそうです。
遺言は「身の程を知れ」だそうです。
すごい遺言残しましたね。
小幡豊後守昌盛
虎盛の息子。だそうです。
苗字が違うのは昌盛本人が変えたようですね。
なぜだろう。
武田家に仕えたそうですが、信玄が亡くなった後、病気になり勝頼自害数日前に亡くなったそうです。
この二人の屋敷の前の通りは
鍛治小路
と呼ばれ多くの武具職人が住んでいたそうですね。
現在は学校になっています。
19人目
武田典厩信繁
たけだてんきゅうのぶしげ
この方は文武両道だったみたいですね。
「論語」など様々な文書を参考に家訓を作り、江戸時代にも多くの武士に読まれたそうです。
亡くなった際は武田家だけでなく、上杉方からもその死を惜しまれたそうです。
現在は施設?になっていますね。
20人目
一条右衛門太夫信竜
いちじょううえもんのたゆうのぶたつ
武田信玄の異母弟です。
戦では後衛だったそうでそこまでの武名は残されていないそうですが、
「甲陽軍鑑」では山縣、馬場とともに重鎮7人に入るほどの武将だった様ですね。
信玄の異母弟ですが、資料や記述はそこまで多くないそうですが、信玄が亡くなった後も武田家として
勝頼に仕えたそうです。
現在はコンビニになっていますね。
21人目
秋山伯耆守虎繁
あきやまきほうのかみとらしげ
この方は壮絶な死を送っています。
居城を織田軍に攻められた際、城兵の助命を求めて降伏するのですが、
織田軍は城兵を殺害し、虎繁を岐阜まで連行され、妻たちと共に長良川の河原で逆さ磔にされたそうです。
現在は学校になっていますね。
22人目
飯富兵部少輔虎昌
おぶひょうぶのしょうとらまさ
有名な「赤備え」を初めに考案した武将とされています。
この赤備えは山県昌景や小幡、浅利と言った武将に引き継がれていき、
戦国時代では武勇に優れた者の象徴だった様ですね。
しかしながらこの方は謀反の疑いをかけられ切腹させられたそうです。
現在は学校の施設となっていますね。
ここまで記事を書いて判明しましたが。
24将なのに、2人足りないですね。。。
回りそびれた様です。
次の機会があれば回ってみましょう。
そして甲府の締めはこちら。
ほうとうで有名な小作さん。
僕はそばアレルギーなんですが、こちらは残念ながら「ほうとう」と「そば」を一緒に煮ているらしく
標準の「ほうとう」は食べられず、「すいとん」にしました。
とは言うものの、「ほうとう」の麺は他の店舗と同じく工場生産らしく、「すいとん」は
各店舗で手作りだそうなので、ちょっと得した気分です。















































































































