武田神社の周りには城下町が広がっているんですが、ここ近辺には有名な武田二十四将が住んでいました。
武田家には優秀な武将がたくさんいたのです。
簡単な説明が以下の甲府市のサイトに載っています。
武田家二十四将
googleマップで検索すると囲う様に分布されているのがわかります。
これは回る必要があります。
電車の時間までまだ少しあるので回ることにしました。
反時計回りに行くことにしたので、神社を北西に進み、小山田氏の邸跡から回ります。
前回ブログの馬出埋葬跡から内堀沿いに5分ほど歩くと着きます。
小山田左兵衛尉信茂
おやまだ さひょうえのじょう のぶしげ
現在は
相川警察官駐在所
になっています。
簡単に説明しますが、武田信玄、勝頼に二代に仕えた武将だそうです。
武田家の元、上杉、織田、徳川、北条との戦に参加していた様です。
途中勝頼から離反し、武田家滅亡後織田、徳川両家に平定されたあと甲斐善光寺に赴き、
嫡男を人質として差し出し、織田信長に謁見しようとするも、そこには信忠が。
長年武田家に仕えていたが離反したことを非難され、その場で処刑されたそうです。
その時一緒に母、妻、長男、長女4人も一緒に処刑されたそうです。
享年44歳。
今の僕より1個下ですね。
そこから西に3分ほど歩くと次の人物の屋敷があります。
二人目は
土屋右衛門尉昌続
つちや うえもんのじょう まさつぐ
現在は畑ですね。
この方も信玄、勝頼と二代に仕えた様です。
昌続の昌は信玄が特に寵愛した部下に与えた文字らしく、特別扱いされていた様ですね。
初陣は17歳、上杉との戦、第四次川中島の戦いで、真田昌幸と共に戦ったそうです。
その後22歳で侍大将の大抜擢され、より側近として奮戦した様です。
また、徳川との三方ヶ原の闘いでは
鳥居忠広(とりいただひろ)との一騎打ちで一人で仕止め武名を挙げたともあります。
そして信玄死去の際、追って殉死しようとするも、高坂昌信に引き留められ信玄の遺骨を持ち帰り、
自分の庭先に埋葬したそうです。
現在はその場所が甲府での墓所になっているそうです。
場所としては武田神社の南西に位置します。
この場所とは違うところをみると、屋敷はいつの時期か移動したんですかね。
さらに南西に6分歩くと次なる人物です。
三人目
山本勘助晴幸
やまもとかんすけはるゆき
現在は公園になっていますが、かなり大きな公園です。
画像奥が入ってきた入り口です。
この山本勘助という人物は実在しない人物と認識されていたそうです。
理由としては武田家の書物にしか名前が出てこず、信憑性があまり高くなかったようですね。
ところがある時全く別の土地、北海道釧路市で見つかった書物に山本勘助に名前が出てきたことをきっかけに
実在した人物と認定されたそうです。
しかもその書類が見つかったのは昭和だそうです。
かなり最近の話なんですね。
そう考えると、かなり謎の人物だったんでしょうか。
大河ドラマにもなりましたけどね。
武田神社の最西端の構えるこの邸の大きさを考えると
かなり信頼を得ていたのではないかと思います。
そこから南南西に7分。
四人目
真田源太左衛門尉信綱
さなだ げんたざえもんのじょう のぶつな
現在はスーパーオカさんになっています。
当日はお休みだったようです。
真田信綱は武田軍の幾つもの戦に先鋒で200騎を率いて戦っていたそうです。
数々の戦を乗り越え39歳の時、1575年長篠の戦いで弟と共に鉄砲部隊の前にその命を落としたそうです。
その時手にしていた刀は
青江貞
と呼ばれる刀だそうです。
現在同じ刀工が作った貞次という刀が重要文化財に定められています。
また、この時信綱の首はその時に来ていた陣羽織に包まれ、家臣が甲斐に持ち帰ったそうです。
その陣羽織は現在でも上田市の信綱寺に収蔵されているそうです。
すごい話ですね。
そしてその首を持ち帰った家臣二人は信綱を追って殉死したそうです。
これまた凄い話です。
そこから東に5分ほど行った場所にあります。
五人目
内藤修理亮昌秀
ないとうしゅりのすけまさひで
現在は更地?
倉庫?
になっていますね。
この方は
昌豊
と呼ばれていた時代があったそうですが、現在は
昌秀
と呼ばれているそうですね。
この方もかなりの武功をあげた方のようです。
信玄公から勝頼公に使えた武将です。
この方も長篠の戦いで討たれてしまったようですね。
そこからさらに南に2分ほど行ったところにあります。
六人目
原隼人佑昌胤
はら はやとのすけ まさたね
現在は畑になっていますね。
この方は戦に出て武功を上げるタイプではなく、頭脳派だったようですね。
土地関連の普請をしたり、様々な武将との取次役だったようです。
しかしながらこの武将も長篠の戦いで命を落とすことになったようです。
かなり過酷な戦いだったようですね。
続く。。。