大手門跡を超えて右を見るとこちらの像があります。

お城といえば必ず誰かの像があります。

この方は「支倉常長」

伊達政宗に命じられヨーロッパにキリスト教徒の布教と通商を求めて世界を回ったそうです。

結局その旅も日本に戻った時にはキリスト教布教禁止の時期だったらしく失敗だったそうです。

 

そのすぐ近くに井戸がありました。

 

が、これは流石に現代に作られたものですね。

ここにあったよ。と言う模型でしょうか。

特に何も書いてありませんでした。

 

正面に大手門櫓です。

左に井戸が見えますね。

右に支倉さんの像です。

 

ここは二の丸跡ですがかなり広い敷地面積です。

 

二の丸跡地には東北大学のホールがあるそうです。

ここは看板も見やすくて説明も多いので助かりますね。

大手門脇櫓に戻ってきました。

この看板によれば現在の櫓は1967年に再建されたものだそうです。

 

この時は中に入ることは出来ませんでした。

特別内覧なんてあれば中見てみたいですね。

 

そして謎の石碑がありました。

二つも。

これだけたくさん案内板があるのに、この石碑に何が書いてあるかの説明板はありませんでした。

なので調べてみると上の石碑は「松川敏胤」と言う仙台出身で日清戦争や日露戦争で活躍した方だそうです。

 

下の石碑は「海藤静夫」と言う仙台市の収入役(2007年まで配置されていた地方自治体の会計事務)を担っていた方だそうです。

 

さて。

ここからの車道ですが。

当時はここが本丸に続く道だったはずですが、2車線の道路ができるくらいの城内に続く道はかなり広いですね。

 

続く。

仙台城行ってきました。

 

かなり前ですが。

 

仙台城と言えば伊達政宗ですね。

 

もし伊達政宗が戦国時代真っ只中に生まれていれば歴史が変わっていたのではないかと

 

言われるほどの武将だった様です。

 

かなり広大な敷地面積をもつ仙台城。

 

青葉山に建てられたことから、青葉城と呼ばれることもあります。

 

天然の要塞ですかね、回るのが楽しみな城です。

 

残念ながら城郭はありません。

 

駅から向かうとまず三の丸があります。

 

発掘と研究により、土塁や塀に囲まれ、伊達政宗の時代には庭園と茶室を伴う屋敷、

 

それから年貢米を納める蔵などがあったことが判明しているそうです。

 

現在は博物館が建てられています。

 

城跡あるあるですが、三の丸や二の丸には役所や博物館などが建てられることが多いですね。

 

こちらは五色沼。

 

解説によるとここで外国人がスケートを始め、彼らにスケートを習った日本人が

 

各地でスケートを広めたことから日本フィギュアスケート発祥の地とされているそうです。

 

 

 

かなり広いスケートリンクになりそうです。

 

写真を見るとわかりますが、この日はまだ雪が残っていましたが、氷は張っていませんでした。

 

五色沼を左手にして坂を登って行くと正面に大手門跡があります。

 

残念ながら戦争時の空襲で焼けてしまったそうですが、高さ12メートルというと4階建て相当の城門となりかなり大きいですね。

 

いつも思いますが、空襲がなければ日本には一体どれほどの史跡が残っていたことでしょうか。

 

大手門につながっていたであろう右側の石垣です。

 

とても立派な石垣ですね。

引きで見るとこんな感じ。

 

左には櫓があります。

 

大手門脇櫓

 

です。

 

元々は仙臺城と表記されていたみたいですね。

 

唯一残っていた石垣も震災で崩れ落ちてしまいました。

 

現在は修復されていますね。

 

こちらがその石垣。

 

内部は粘土と藁を練って瓦と交互に重ねて補強されていたそうです。

 

大手門あとを越えるとまた看板がありますが、写真を見てもやはりかなり立派な

 

大手門だったことが伺えます。

 

ここからしばらく仙台城の記事が続きます!

17人目

小畠山城守虎盛

おばたやましろのかみとらもり

 

18人目

小幡豊後守昌盛

おばたぶんごのかみまさもり

 

小畠山城守虎盛

こちらの方はとても強かったそうで、「鬼虎」と呼ばれることもあったそうです。

71歳で病死するまでに合計36回の合戦に参加し、貰った感状36枚。41箇所もの傷を受けたそうです。

遺言は「身の程を知れ」だそうです。

すごい遺言残しましたね。

 

小幡豊後守昌盛

虎盛の息子。だそうです。

苗字が違うのは昌盛本人が変えたようですね。

なぜだろう。

武田家に仕えたそうですが、信玄が亡くなった後、病気になり勝頼自害数日前に亡くなったそうです。

 

この二人の屋敷の前の通りは

鍛治小路

と呼ばれ多くの武具職人が住んでいたそうですね。

 

現在は学校になっています。

 

19人目

武田典厩信繁

たけだてんきゅうのぶしげ

この方は文武両道だったみたいですね。

「論語」など様々な文書を参考に家訓を作り、江戸時代にも多くの武士に読まれたそうです。

亡くなった際は武田家だけでなく、上杉方からもその死を惜しまれたそうです。

 

現在は施設?になっていますね。

 

20人目

一条右衛門太夫信竜

 

いちじょううえもんのたゆうのぶたつ

武田信玄の異母弟です。

戦では後衛だったそうでそこまでの武名は残されていないそうですが、

「甲陽軍鑑」では山縣、馬場とともに重鎮7人に入るほどの武将だった様ですね。

信玄の異母弟ですが、資料や記述はそこまで多くないそうですが、信玄が亡くなった後も武田家として

勝頼に仕えたそうです。

 

現在はコンビニになっていますね。

 

21人目

秋山伯耆守虎繁

あきやまきほうのかみとらしげ

この方は壮絶な死を送っています。

 

居城を織田軍に攻められた際、城兵の助命を求めて降伏するのですが、

 

織田軍は城兵を殺害し、虎繁を岐阜まで連行され、妻たちと共に長良川の河原で逆さ磔にされたそうです。

 

現在は学校になっていますね。

 

22人目

飯富兵部少輔虎昌

おぶひょうぶのしょうとらまさ

有名な「赤備え」を初めに考案した武将とされています。

この赤備えは山県昌景や小幡、浅利と言った武将に引き継がれていき、

戦国時代では武勇に優れた者の象徴だった様ですね。

しかしながらこの方は謀反の疑いをかけられ切腹させられたそうです。

 

現在は学校の施設となっていますね。

 

ここまで記事を書いて判明しましたが。

 

24将なのに、2人足りないですね。。。

 

回りそびれた様です。

 

次の機会があれば回ってみましょう。

 

そして甲府の締めはこちら。

 

ほうとうで有名な小作さん。

 

僕はそばアレルギーなんですが、こちらは残念ながら「ほうとう」と「そば」を一緒に煮ているらしく

 

標準の「ほうとう」は食べられず、「すいとん」にしました。

 

とは言うものの、「ほうとう」の麺は他の店舗と同じく工場生産らしく、「すいとん」は

 

各店舗で手作りだそうなので、ちょっと得した気分です。

とても美味しかったです。
 
甲府編
 
おしまい。

 

穴山邸跡から南東に7分ほど。

 

15人目

 

甘利備前守虎泰

 

あまりびぜんのかみとらやす

 

甲斐国出身で、甘利郷の出らしいです。

 

村の名前がそのまま苗字になった人ですね。

 

政治家にも甘利さんているから気になって調べてみたら、政治家の方は神奈川県出身だそうで、

 

関係なさそうですね。

 

この甘利虎泰は武田信虎時代は武田四天王と呼ばれるほどだったそうです。

 

数々の戦で武功を挙げた武将で、どうやら信心深い方でもあるようで色々な神社に奉納もしている

 

記述が残っているそうです。

 

現在は道路の片隅に跡地看板が残っているだけになっています。

 

このすぐ横に護国神社がありました。

 

かなりでかいです。

 

護国寺って各地にありますが、(お城の敷地にある場合が多いですね。)

 

元々は明治時代以降に戦争や国事で亡くなった地域ゆかりの英霊をまつる神社だそうです。

 

立派ですね。

 

東京には靖国神社がありますが、全国の護国神社と意味合いは同じですね。

 

度々首相が靖国神社に参拝が問題になっていますね。

 

護国神社から東に5分ほど行くと信玄公墓所があります。

 

この看板によりと、1779年に発掘作業で発見されたそうですね。

 

この奥に墓所があります。

 

ここから西へ5分ほど。

 

16人目。

 

山縣三郎右兵衛尉昌景

 

やまがたさぶろう ひょうえのじょう まさかげ

 

長い名前…

飯富虎昌の弟だそうです。

 

この方もかなりの武将だった様ですね。

 

150騎の侍大将だった様です。

源四郎とも呼ばれていたそうで、

 

「源四郎の赴くところ敵なし」

 

と言われてたそうですね。

 

すごい言葉。

 

武具を赤に統一して戦に臨んだ様です。

 

いわゆる「赤備え」と言われる騎馬隊ですね。

 

(騎馬隊が実在したかは前述の通り謎らしいですが、まあ、信じた方がロマンありますよね)

 

150騎の侍大将になってから11年後には300騎の大将になったそうです。

 

逸話がたくさん残っているので一つだけ。

 

数々の戦で武功を挙げたのはもちろんですが、その最期が熾烈な逸話が残っています。

 

長篠の戦いでは両腕を銃弾で撃ち抜かれても采配を話すわけにはいかないと、口に咥えて討死するまでそれを

 

離さなかったそうです。

 

そして「長篠合戦図屏風」に、戦死した昌景の首を家臣の志村又左衛門が敵に奪われない様に持ち帰る描写が描かれているそうです。

 

当時はやはり首を敵に奪われる事は武士の恥だと思われていたのでしょうか。

 

現在は中学校になっています。

 

 

続く。。。

14人目

 

穴山玄蕃頭信君

 

あなやまげんばのかみのぶただ

 

読み方が難しすぎる上に変換できない名前です。

 

この方は当初武田家に支えていたようですが、長篠の戦い前後から少しづつ離反していったようです。

 

この戦で敗退した武田勝頼を救った高坂弾正は、のちに「五箇条の献策」と呼ばれるものの中に

 

穴山氏の切腹を述べている所から、このころは武田家に仕えていたとはいえないかもしれません。

 

その後徳川に付いた穴山氏は、本能寺の変の折、大阪から京都への移動中、殺害されてしまったようです。

 

殺害には諸説あり、一揆衆や自害説もあるようです。

 

現在は甲府市武田氏館跡歴史館になっています。

 

立ち寄ってみることにしました。

 

 

ここはいろんな資料がまとめられています。

 

記載されているものをみると、

 

胃癌説

 

結核説

 

銃撃による傷の悪化説

 

の三つが濃厚みたいですね。

 

こちらの地図によると曲輪は8個もあったようですね。

 

神社西側に位置する大手虎口には馬出と呼ばれる場所がありますが、

 

色々と形を変えていたようです。

 

三日月堀の丸馬出→角馬出→石塁の順ですね。

 

神社は200M四方の施設で扇状地にあるため高低差があり、

 

北側は空堀。

 

南側は水堀。

 

だったそうです。

 

空堀ってあんまり効果なさそうだと感じるのは僕だけでしょうか。。。

 

こちらの曲輪は出入り口を囲むように土塁があり、その形を見て

 

枡形虎口

 

と呼ばれていたそうですね。

 

北側虎口と同じ作りですね。

北口よりも大きかったようです。

 

こちらの長篠の戦いについての記述によると、

信玄の後を継いだ勝頼は美濃の方に進軍。

徳川と織田でそれを迎え撃ち、武田軍は敗退。

というようなことが書かれています。

映画やドラマではこの時に鉄砲を使った三段撃ちで武田の騎馬隊を撃破した。

 

というようなものが多々ありますが、こちらの記事によると史実には本当にその様な作戦があったかは

 

定かではないみたいですね。

 

元ネタは江戸時代に書かれた「甫庵信長記」というものの書物に近い記述があるそうですが、

 

実際の戦のずっと後ですからね。

 

また、武田の騎馬隊についても実在したとかしなかったとか色々な説があるみたいですね。

 

「信長公記」に馬で突入する作戦があったとか、家康が決戦の3日前に武田軍の騎馬に備えて柵を作れと命じた書状があるとか。

 

反対に騎馬隊がなかった説としては

各地から集まった兵が急に騎馬隊として集団で戦うのは無理だとか、

騎馬1に対して歩兵数人が必要だから騎馬のみの隊はなかったのではないか?

 

など、色々ですね。

 

タイムマシンができたらそういった歴史の謎を追求したいですね。

 

続く。

 

 

11人目

 

横田備中守高松

 

よこたびっちゅうのかみたかとし

 

たまに出てくる人名特有の読み方ですね。

 

現在は畑になっています。

 

この方は元々甲賀の氏らしいですね。

 

この方も数々の戦歴があり、その最後は『砥石崩れ』と言われる砥石城包囲網からの退去時に

敵国からの攻撃の混乱から殿軍を務めそのまま戦死したそうです。

 

信玄公からも重宝されていた武将だったようです。

 

この跡地の奥に石で囲まれた場所があったので登ってみると

 

大きな貯水池がありました。

 

釣り人がたくさんいました。

 

 

地図にもある通り、武田城は扇状地に建てられたようです。

 

画像奥が甲府城、甲府駅の方です。

 

一望できますね。

 

木が生い茂っているところが武田神社となります。

 

貯水池を左に2分程歩くとあります。

 

12人目

 

真田弾正忠幸綱

 

さなだだんじょうゆきつな

 

この方と共に、息子三人も武田二十四将に入っています。

 

とても優秀な武将一家ということになりますね。

 

前述した「横田備中守高松」は砥石崩れという戦で戦死したそうですが、

 

その一年後にもいう一度砥石城を攻めたのがこの方だそうです。

 

調略などを駆使し「高白斎記」という書物によると1日で攻略したとか。

 

現在はアパートになっていますね。

 

ここから西へすぐ。

 

13人目

 

春日虎綱

 

かすがとらつな

 

このかたは高坂弾正という名前に方が有名ですかね。

 

この方は現在ことわざにもなっている

 

「敵に塩を送る」

 

の語源となった史実の人のようです。

 

高坂弾正が川中島の合戦で無縁仏になってしまった遺体を敵味方なく弔い

 

それを知った上杉謙信が後日、北条・今川包囲網によって困っていた甲斐国に塩を送ったのが

 

この逸話の語源だそうです。

 

 

現在は民家になっています。

 

続く。。。

7人目

 

三枝勘解由左衛門尉昌貞

 

さえぐさ かげゆざえもんのじょう まさただ

 

原昌胤の邸跡から南へ2分ほど。

 

名前が長い。。。

現在はマンションになっていますね。

 

この方は武芸に優れていたようです。

 

槍を使ったり、弓隊を率いていたこともあるそうです。

 

花沢城、現在の静岡県焼津のあたりを攻めた時に一番槍の武功を立て、信玄公から感状を受け、

 

山県昌景からは名刀「吉光」が与えられたそうです。

 

この刀は鎌倉時代に活躍した刀工で、短刀の名手と称されているそうです。

 

なんと国宝が四振りも。

 

凄いですね。

 

そしてこの方もまた、長篠の戦いで織田軍に攻められ戦死したそうです。

 

 

そこから東へ5分ほど。

 

八人目

 

多田三八郎

 

たださんぱちろう

 

現在は立派なお宅になっています。
ちなみに多田さんではありませんでした。

この方は弓修行で甲斐に入り、足軽大将になったそうです。

 

伝説によると29の武功を挙げ、全身に27箇所に傷があったそうですが、強者ですね。

 

そして鬼退治や天狗まで倒しているそう。。。

 

そこから北へ3分ほど。

 

九人目

 

馬場美濃守信春

 

ばばみののかみのぶはる

 

 

現在は民家が立っています。

この方は「不死身の鬼美濃」と呼ばれていたそうです。

 

70余の戦に出て一度も傷を負わなかったとか。

そして築城や領内統治にも優れていたようです。

 

しかしながらそんな武将も長篠の戦いで武田勝頼を逃すために殿(しんがり)を担い命を落としたようです。

 

そこからさらに北へ2分ほど。

 

十人目

 

板垣駿河守信方

 

いたがきするがのかみのぶかた

 

 

現在は倉庫?ですかね。

この方は調べてみると城をいくつも落としているようです。

 

色々城も巡ることが多いですが、それをいくつもとは凄いですね。

 

彼は長篠の戦いではなく、上田原の戦いという戦で命を落としたそうです。

 

ここから北に3分ほど歩くと武田神社の宝物殿がありました。

 

 

撮影禁止でしたので何も写真はありませんが、金額に見合わない素晴らしい宝物殿でした。

 

近くに能舞台がありました。

 

甲陽武能殿。

 

イベントなのか、武将がいたので写真を撮らせてもらいました。

 

これ、誰なんだろう。。。

 

続く。。。

あけましておめでとうございます。

 

今年も恒例のおせち料理を作りました。

 

海鮮物は豊洲へ。

 

 

立派なカンパチ。

 

香味漬けの為に柑橘の皮干して焼いたり、

 

白身を揚げたり

 

銀杏餅作ろうと鉢でゴリゴリやったり

 

白イカにアニサキスライト当ててみたり

 

ローストビーフが結構思い通りの色になって嬉しかったり

今年も無事に出来上がりました。

 

かまぼこだけ市販でしたがあとは無事完成。

がめ煮

紅白なます

栗きんとん

黒豆

ローストビーフ

香箱蟹

白身魚の香味漬け

車海老の含め煮

ぶりの幽庵焼き

刺身

 カンパチ

 ブリ

 シマアジ

 甘エビ

 カンパチ昆布〆

 ブリ昆布〆

 シマアジ昆布〆

ニシンの昆布巻き

高野豆腐と椎茸の含め煮

銀杏餅

かまぼこ

伊達巻

数の子

さつまいもの甘露煮

 
今年もブログ共々よろしくお願いいたします。
 
皆さんも良い一年になりますように。

 

武田神社の周りには城下町が広がっているんですが、ここ近辺には有名な武田二十四将が住んでいました。

 

武田家には優秀な武将がたくさんいたのです。

 

簡単な説明が以下の甲府市のサイトに載っています。

 

武田家二十四将

 

 

googleマップで検索すると囲う様に分布されているのがわかります。

 

これは回る必要があります。

 

電車の時間までまだ少しあるので回ることにしました。

 

 

反時計回りに行くことにしたので、神社を北西に進み、小山田氏の邸跡から回ります。

 

前回ブログの馬出埋葬跡から内堀沿いに5分ほど歩くと着きます。

 

小山田左兵衛尉信茂

おやまだ さひょうえのじょう のぶしげ

 

 

現在は

 

相川警察官駐在所

 

になっています。

簡単に説明しますが、武田信玄、勝頼に二代に仕えた武将だそうです。

 

武田家の元、上杉、織田、徳川、北条との戦に参加していた様です。

 

途中勝頼から離反し、武田家滅亡後織田、徳川両家に平定されたあと甲斐善光寺に赴き、

 

嫡男を人質として差し出し、織田信長に謁見しようとするも、そこには信忠が。

 

長年武田家に仕えていたが離反したことを非難され、その場で処刑されたそうです。

 

その時一緒に母、妻、長男、長女4人も一緒に処刑されたそうです。

 

享年44歳。

 

今の僕より1個下ですね。

 

そこから西に3分ほど歩くと次の人物の屋敷があります。

 

 

二人目は

 

土屋右衛門尉昌続

 

つちや うえもんのじょう まさつぐ

 

現在は畑ですね。

 

この方も信玄、勝頼と二代に仕えた様です。

 

昌続の昌は信玄が特に寵愛した部下に与えた文字らしく、特別扱いされていた様ですね。

 

初陣は17歳、上杉との戦、第四次川中島の戦いで、真田昌幸と共に戦ったそうです。

 

その後22歳で侍大将の大抜擢され、より側近として奮戦した様です。

 

また、徳川との三方ヶ原の闘いでは

 

鳥居忠広(とりいただひろ)との一騎打ちで一人で仕止め武名を挙げたともあります。

 

そして信玄死去の際、追って殉死しようとするも、高坂昌信に引き留められ信玄の遺骨を持ち帰り、

 

自分の庭先に埋葬したそうです。

 

現在はその場所が甲府での墓所になっているそうです。

 

場所としては武田神社の南西に位置します。

 

この場所とは違うところをみると、屋敷はいつの時期か移動したんですかね。

 

 

 

さらに南西に6分歩くと次なる人物です。

 

三人目

 

山本勘助晴幸

 

やまもとかんすけはるゆき

 

 

現在は公園になっていますが、かなり大きな公園です。

 

画像奥が入ってきた入り口です。

この山本勘助という人物は実在しない人物と認識されていたそうです。

 

理由としては武田家の書物にしか名前が出てこず、信憑性があまり高くなかったようですね。

 

ところがある時全く別の土地、北海道釧路市で見つかった書物に山本勘助に名前が出てきたことをきっかけに

 

実在した人物と認定されたそうです。

 

しかもその書類が見つかったのは昭和だそうです。

 

かなり最近の話なんですね。

 

そう考えると、かなり謎の人物だったんでしょうか。

 

大河ドラマにもなりましたけどね。

 

武田神社の最西端の構えるこの邸の大きさを考えると

 

かなり信頼を得ていたのではないかと思います。

 

 

 

 

 

そこから南南西に7分。

 

四人目

 

真田源太左衛門尉信綱

 

さなだ げんたざえもんのじょう のぶつな

 

現在はスーパーオカさんになっています。

 

当日はお休みだったようです。

 

真田信綱は武田軍の幾つもの戦に先鋒で200騎を率いて戦っていたそうです。

 

数々の戦を乗り越え39歳の時、1575年長篠の戦いで弟と共に鉄砲部隊の前にその命を落としたそうです。

 

その時手にしていた刀は

 

青江貞

 

と呼ばれる刀だそうです。

 

現在同じ刀工が作った貞次という刀が重要文化財に定められています。

 

また、この時信綱の首はその時に来ていた陣羽織に包まれ、家臣が甲斐に持ち帰ったそうです。

 

その陣羽織は現在でも上田市の信綱寺に収蔵されているそうです。

 

すごい話ですね。

 

そしてその首を持ち帰った家臣二人は信綱を追って殉死したそうです。

 

これまた凄い話です。

 

 

そこから東に5分ほど行った場所にあります。

 

五人目

 

内藤修理亮昌秀

 

ないとうしゅりのすけまさひで

現在は更地?

 

倉庫?

 

になっていますね。

 

 

この方は

昌豊

と呼ばれていた時代があったそうですが、現在は

昌秀

と呼ばれているそうですね。

 

この方もかなりの武功をあげた方のようです。

 

信玄公から勝頼公に使えた武将です。

 

この方も長篠の戦いで討たれてしまったようですね。

 

 

そこからさらに南に2分ほど行ったところにあります。

 

六人目

 

原隼人佑昌胤

 

はら はやとのすけ まさたね

 

 

現在は畑になっていますね。

 
この方は戦に出て武功を上げるタイプではなく、頭脳派だったようですね。
 
土地関連の普請をしたり、様々な武将との取次役だったようです。
 
しかしながらこの武将も長篠の戦いで命を落とすことになったようです。
 
かなり過酷な戦いだったようですね。
 
 
続く。。。

 

この看板によると、西曲輪にあった虎口の中に門と石垣があったそうですが、

 

この二つは同時期にはなかったそうです。

 

武田信玄時代にまず門があり、その後武田家滅亡の後に石垣ができたそうです。

 

そしてこの石垣は西日本から伝来したそうです。

 

そんな事まで発掘してわかるんですね。

 

そして礎石から推測すると、この場所には

幅3.3メートル

奥行き3.8メートル

の櫓構造の門があったみたいです。

かなり大きいですね。

 

 

西曲輪には屋敷があり、武田信玄の長男が住んでいたそうです。

 

この図の通り、少し湾曲した作りになっていて、敵の侵入が容易ではない作りになっていますね。

 

この狭くなっているところが

 

虎口

 

と呼ばれるところですね。

 

それぞれ虎口作りになっていて、幅は2メートルほどなので、人が二列で入れるくらいですね。

 

看板にも記載されていますが、大群では入れないですね。

 

実際に歩いてみると、装備を含めると二列でも狭いと感じるくらいでした。

 

虎口を抜けるとかなり広い敷地になっています。

 

敵が大群で押し寄せても虎口の向こうのこの広い敷地で待ち構えられたら攻め込むのは

 

かなり至難の業ですね。

 

曲輪をつなぐ通路も全て狭くなっています。

 

画像前が次の曲輪

 

梅翁曲輪

 

となります。

 

西曲輪を抜け、梅翁曲輪に入るとすぐにこんなものがありました。

 

馬埋葬跡。

 

 

 

ほぼ完全な形で馬の骨が発掘された様です。

 

 

この画像の通りですが、今僕たちが見る馬とはかなりサイズが違いますね。

 

続く。。。