柴山の観劇ブログ

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演劇してる大学生、柴山が映画や演劇を見た感想を綴ります。
また、本のレビューなども書いています。
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8/3、博多座で催された「Fly  Again」という芝居を観に行き、これがかなり面白かった。自分の心の琴線に触れた場面、またなぜそうなったか自分なりに思考した結果を記そうと思う。

また、ここに書いてあることは全て僕の一個人の意見である。記事の内容に関して一切の異議申し立ては受け付けないので、閲覧はくれぐれも自己責任で。


今回観た「Fly  Again」という芝居は総勢100人以上のキャストからなる群像劇だ。メジャーリーグのチームと対戦して100点差以上つけられたホークス。その舞台裏で奔走する様々な人間模様を描く。100人以上も役者がいるため、全員が名前のある役を頂いてるわけではない。所謂アンサンブルが大多数を占める。

実は自分はこのようなアンサンブル大量出現系の芝居はあまり見てこなかった。嫌いというわけではないが、自分がアンサンブルのたくさん出てきて集団の芝居で見せるような脚本を書かないので見てもあんまり参考にならんだろうという考えだった(それはただの勘違いだったのだが)。また多くの人間を出すあまりそれぞれのエピソードにかけるカロリーが減少し、薄くなるのではとの懸念もあった。


しかし観てみるといそんなことは無かった。

これだけの人数を舞台に上げておきながら、しっかりとそれぞれのキャラの大小様々な思いや葛藤を舞台に乗せ、綺麗に纏め上げてるのは見事の一言であった。

野球を金稼ぎくらいにしか思ってなかった企業のぼっちゃんは最終的にホークスを応援するし、女医を想う野球人たちは女医への告白を決意するし、アイドルは万引きに走るし、関係の悪かった親子は和解するし(個人的にこのエピソードが1番好きだった)、人物たちが互いに相互に影響し合いAからBに変化して行く"展開"がきちんと見受けられた。もちろん変化の具合に大小はあるけれども。若干展開が強引だなと想う箇所もあったが、全体的に個々のエピソードをしっかり掘り下げショートショートのドラマとして完結させてる印象を覚えた。


だがショートドラマを集めただけでは何の一貫性もない。1つの芝居として一本筋が通ってる必要がある。こういう群像劇の場合、それぞれのキャラに共通する1つの軸が必要なんだと感じた。今回の軸はもちろんホークスの試合だ。その試合に対しての思いや関わり方、立場などはキャラによって千差万別だ。しかし確実に、ホークスの試合という軸で持って違ってるようで共通している。三谷幸喜の「THE・有頂天ホテル」という作品も大晦日のカウントダウン寸前のホテルという明確な軸があった。

そしてその軸となる状況そのものも変化してゆく。ホークスは徐々に相手打線を攻略し、絶望的と思われていた点差をついに3点差にまで追い詰める猛攻を見せるのだ。非現実的な展開ではあるが芝居でそんなことはどうでもよく、その変わりゆく状況のなかで人間の心がどう変わってゆくががキモなのだ。もう少しで逆転という所にきたホークス。それに伴い周りの人間達の気持ちも一斉に盛り上がりを見せて行く。個々のエピソードを経て何かを掴んだ人物達は、行動を起こし始める。その行動が他のショートストーリーの登場キャラに作用する。バラバラのストーリーにバラバラに存在していたキャラ達が、ホークスの猛攻と共に一つに交わって行く。芝居が1つのゴールへと収束していく様は本当に見事であり、痛快の一言だった。


だがその中、一つ違うベクトルを向いているキャラクターがいた。とある親子である。娘と父の関係は良くなく、はじめは思春期の娘が反発してるだけのように見える。

しかし本当は会社の倒産(だったっけ?)などですっかりへこたれてしまった父に対して娘は怒りの念を抱いていた。父にしっかりしてほしい、立ち直ってほしいと胸の底をぶつける娘。父は適当にはぐらかすが何度も何度も娘から言葉を投げかけられついに本音を叫ぶ。「しょうがない」。理不尽な社会の中で生き疲れた彼は、自分の痛みから目をそらしその場しのぎを続けて穏便に生きていくことを選んでしまったのかもしれない。娘には父のそんな姿を見るのが耐えられなかった。二人の本気の思いがぶつかり合うシーンは芝居とは思えないほどの迫力と緊張感があり、目頭が熱くなった。


このように、本気で人がぶつかり合ってる様には感動してしまう。普段我々は自分の思いを本気で誰かに伝えることなんて滅多にない。面倒ごとを避け穏便に済ませた方が楽だから。ただ人間は誰かと本気で関わり抜きたいという欲求を本能として持ってるものだと思う。だからこそ演劇という虚構の世界で本気になってその場を生きる人間に感情移入するのだろう。本気になってる人間は目がギラギラして身体中からエネルギーが溢れている。演じている側も見ている側も真剣勝負でその場を共有できる芝居。そんな芝居を僕も作りたいと思う。

本格的戯曲講座が始まったのが確か8月とかやったと思う。この講座ではまず見に行きたくなるタイトルから決めるというやり方であった。

 

普段戯曲を書くときは内容から先に構想していってタイトルはかなり後回しにしてから考えるので、タイトルから先に考えてそこから内容を考えるというのは新しいやり方であり自分にとって挑戦だった。とりあえず(自分が思う)面白そうなタイトルを3つ考えて最終的に決定したのが

 

「先生しよん!~sensation~」

 

というタイトルだ。どうかな、自分で言うのもアレやけど中々面白そうなタイトルじゃないスか?「~しよん」っていう大分弁をつけて「先生しよん(先生してる)」という言葉と「sensation(感覚、興奮などを意味する英単語)」をかけている。どんなセンセーショナルな事件が起こるのかワクワクしません?ね?ね?このタイトルを聞いて「こんな内容を想像した」っていうのがあればコメント欄やTwitterのリプ等で教えてください。まってまーす。

 

あ、肝心の出来上がった「先生しよん!~sensation~」の内容と執筆課程はパート③で述べるのでここでは割愛。激しくネタバレ注意。これから世に出回る可能性がかなり低い脚本やから別にいいんだけども。

 

そして8月から12月まで月に1~2回のペースで講座があり、そのたびに書き進めては読み書き進めては読みを繰り返し、参加者三人がそれぞれの個性を生かした戯曲を執筆した。その中から一つ選び実際に上演するというのは①で述べた通りだ。残念ながら僕の戯曲は上演には至らなかったがこの戯曲を一応完成までもっていけてよかったと思う。

 

まぁ、内容が内容やから落選するよなそりゃ

 

そして2月末からの稽古から3月上旬の本番と進んでいく。シアラボ2018もメンバーの公募をはじめようやく本格的に始動しはじめたのだ。僕はシアラボでは「演出助手」という立場を与えられた。

 

演出助手ってなんだ?何をする役職なんだ?聞くに演出家とスタッフのパイプ役となり演出のオーダーを演出に代わって伝えに行ったり、稽古がまだあまりなされてないシーンを演出に「あそこまだあんまやってないけど大丈夫ッスか?」と声かけしたりする立場らしい。福教演劇部では今まで演出助手というものを立てずにその役職の仕事も演出が担っていたため何をすればいいのかも、この役職の持つ意味も当初はあまり理解できていなかった。

 

まぁとにかく稽古が始まり、オーデションの結果俳優チームに配属されて役を与えられた人たち、俳優には落選したけどスタッフとして舞台・照明・音響のいずれかの部署に配属した人たち(中には元からスタッフを希望していた人も居たが)に分かれて俳優は演出のもとで稽古を、スタッフは演出のオーダーに沿ってプラン作りや物の制作を始めていった(稽古が始まる前にはオーディションとか、オーディション後も配役が決まる過程とか、演出さんがイメージを伝えるミーティングとか、文章に起こせそうな出来ごとは沢山あったのだが軒並みカットしている。ただ演出さんが常に頭を抱えていて大変そうだなぁと眺めていた)。

 

あ、そうそう。忘れてはいけないのが今回のシアラボ2018のメンバーのチーム名というか劇団名だ。僕らの劇団名は「楽学証明団」。みんなそれぞれ考えてきたよさげな劇団名を出し合っていいのを選び、選ばれたいくつかの候補の中から言葉を組み替えたり試行錯誤を繰り返してようやく決まったのが「楽学証明団」だ。「がくがく」というなんだかマヌケだけど聞いた感触のいい語感と僕自身このシアラボで芝居についてもっと「楽しく学びたい」という気持ちがあって、この劇団名が候補に挙がったときは真っ先に投票した。結果この劇団名に決まってよかったと心の底から思う。

 

話を戻そう。さっきからシアラボでどんなことをしてきたのか経緯説明ばかりになっているがそんなことはどうだっていい(よくないけど)。僕がブログに綴りたいのはシアラボを通して学んだこと、即ち「気づき」である。ここで得た気づきをこうしてアウトプットしていかないと、頭にとどめているだけでは忘れてしまうのだ。ここからは完全に僕の自己満足の世界なのでここで読むのをやめてくださってもかまいません。

 

僕が一番大事だと感じたこと、それは妥協をしないということだ。

 

たとえば前につけた演出をどうしても変更したい時ってあるよな。前にこういったもののやはり新しく思いついたこっちのプランの方がしっくりくる、演出してるとほんとによくある。ただ簡単に「やっぱこっち」とは言いにくいのだ。部員から「先輩この前と言ってたこと違うじゃないですか」と不満が出てくるのが怖いので一度決定した物は基本的にあまり変更しようとしてないと思う(多分)。

 

ただ今回の演出さんは最後の最後までよりよい表現にするために色々試して変更も辞さないときもあった。その時演出さんは伝え方にかなり苦労していたように見えた。前に言ったオーダーを変更するのはやはりやりにくいんだろうなあと思う。そうはいっても苦労してでも「伝える」という工程を面倒くさがって妥協してしまうところのあった僕に比べてすごく作品に対して、そして座組に対しての愛が見えた。それと同時に今まで相手に不満を持たせないために自分の意見を抑えて妥協していた自分は演出家としていかに作品に対して、座組に対して失礼なことをしていたのだろうかと恥ずかしく思った。そうじゃないんだ。相手に納得してもらうためにこちら側の伝え方やアプローチを変えなくてはならないのだ。人生経験が未熟な僕にはまだまだ人にうまく伝える技術を持っているとは言い難いが、そこを諦めてしまっては演出家失格であろう。

 

そこで必要になってくるのはやはりコミュニケーション・伝え方の技術だろう。稽古の後半になって演技も固まってきてる中で「やっぱこうして」と相手への配慮もなしに指示を出すだけだと「ハァ?」という気にさせてしまうだろう。相手に分かってもらうよう、納得してもらうよう自分が変わらなくちゃいけない。伝え方の勉強も演出家には大事な勉強なのだ、演劇の本ばかり読んでりゃあいいんじゃない。

 

僕は演出家としてはかなり口下手というかコミュ障な方だと思うが、コミュ障はアカン。うん。最近アドラー心理学の理論をもとにどのような伝え方が有効なのかを書いてる本を読んだが、そういう本から自分のコミュニケーション技術を上げていかねばならないな。演出だけでなく社会に出てからも必須な能力であるし、コミュニケーション。

 

今回一番の気づきはこれだったが、ほかにもある。一つ一つを掘り下げて書くとあまりに長くなるのでここからは箇条書きで(僕が稽古中につけたメモをそのまま書いているので支離滅裂なところがあるかも、ごめん)。

 

・引き算の演出

→見やすくわかりやすくを重視して足し算の演出ばかりを盛り込んでるとわざとらしさを感じさせたりリアリティを損なう結果につながる。

 

・役者への質問

→役者に質問をするときは役者とイメージをすり合わせて互いに納得したい時。ダメ出しのたびにいちいち質問していたら稽古に時間がかかってしゃーねぇ。

 

・動き、ブロッキング

→気持ちの+-が動きのトリガーになっている?

 例えば-と-の気持ちが混ざり合うと間が発生することも。すると気まずさやいたたまれなさが生じ、その場から離れたくなるのではないか。

→今まで役者をどう動かすかということに悩んでいたのでその手立てになりそう。

 

最後に公演を終えての感想を一行で。

 

皆にであえてよかったです!また芝居しましょう!

 

駄文長文失礼しました。

北九州芸術劇場さんの主催する企画「シアターラボ2018」(略してシアラボ)に演出助手として参加し、「ドップラー効果の求め方」という舞台を作った。見に来てくださったお客様、本当にありがとうございました。

そもそもシアラボってなんぞ?

僕はもともとこのシアラボの企画の一環として8月から「本格的戯曲講座」(正式名称は忘れた)というものに参加していた。僕も含めて3人参加しており、それぞれが書いてきた戯曲を読み合って感想や批評を言い合って講師の方(「飛ぶ劇場」の代表である泊さん)からのアドバイスをいただきながら長いスパンで戯曲を完成させるというものであった。

そして3人が書いた戯曲の中から一つ選び、3月の上旬に上演するという企画であった。

また、上演するメンバーもこの企画のために一般公募で集める。つまり一回限りの劇団を作るというわけだ。役者もスタッフもほぼみんながはじめまして、演劇に全く触れたことがない人も多い。そのメンバーで2月末から2週間ほどの稽古を行い、リーディングという形で上演をするというのが「シアターラボ2018」の概要だ(抜け漏れがあるかもしれないが、それはごめん)。

 

なぜ僕がこの企画に参加したのか。元々は7月に「誰にでも書ける戯曲講座」的なタイトルの戯曲講座があり、それに参加したのが始まりだった。「本格的戯曲講座」の前身ともいえるもので、これに参加していた人の中から希望者(と言っても多数だった場合は抽選か何かで選別はされただろうが)が本格的戯曲講座に進み、実際に戯曲を書きあげて2月末から3月の上演まで「劇作・演出チーム」として作品に関わることができるのだ。

僕は大学に入ってから戯曲の執筆を本格的に開始した。自分なりにいい戯曲を書きたくて色々本を読んだりして部内で何度か上演されるほどにはマトモな戯曲が書けるようになったのではないかと思う。しかしどうも僕の戯曲は「ベタ」で「ヒネリ」がないらしく、部員から批判を受けることも多かった(実際上演のアンケートも似たようなことが書かれてあることが多かった)。そのような状況をどうにか打開せねば、僕にも福岡教育大学演劇部にも未来はないと極めて勝手な使命感に駆られてこの7月の戯曲講座の門を叩いたわけだ。この時は基礎講座という触れ込みだったので、内容も戯曲をほぼ書いたことない人向けであろう基礎的なものだった。ただ戯曲の書き方をすべて本から学んだ僕にとって人から戯曲について直接教えを乞うという経験が初めてであり、百聞は一見に如かずではないが本をパラパラ読むよりもかなり勉強になったと思う。何が勉強になったのかというと、戯曲を書く上でのポイント(「葛藤」とか「起承転結」のようなどの戯曲の指南書でも触れられてるであろうチョー基本的なこと)がなんとなくの知識から実感へと変わったことだ。「なんとなくわかっていることは意識してわからないと使えない」と某書籍に書いてあったが全くその通りで、知識があってもそれが自分の血となり肉となって活用できないと意味はないのであり、人からナマの講義を受けることで自分の中にあった栄養(知識)が消化されて血肉(実感)に変わる感覚があったのだ。それはまさしく自分の中に長く残り続ける「気づき」であると思う(多分ここからは「気づき」というワードが頻発すると思う)。

本格的戯曲講座に進みたいとは7月の段階から思っていた。自分の戯曲をもっと面白くするためのまたとないチャンス、どうしても参加したかったが本格的戯曲講座への参加は2月末からの稽古に参加し、3月上旬の本番までフルで立ちあえることが条件となっていた。そこでネックになったのが「卒業公演」だ。卒業公演の時期とシアラボの時期が丸被りしていたのだ。両方やるというのが厳しそうなのでどちらかを諦めなければならなかったのだが、これに関してはあまり悩まなかった。先輩に頭を下げまくって本格的戯曲講座に、シアラボ2018に参加する決意を固めたのである。これが僕の長い長い8か月の始まりだったのだ。

そろそろバイトに行かねばならないので、続きは明日にでも。

「読んだら忘れない読書術」 樺沢紫苑

精神科医をしながら作家として年に何冊か(冊数は忘れた)本を出版している著者が、30年後も忘れない読書術として読書の質を高めていく方法を、脳科学的な観点やその本を読む目的と言ったところから解説している。語り掛けるような口調と平易な文章で、普段読書をしない僕にも大変読みやすい。著者が忘れないための読書術として提示する方法はどれも脳科学的な根拠に基づくもので、結果を羅列するのみでなく根拠をわかりやすく解説している。根拠が明確だから著者の主張も納得しやすい。そのため本文に説得力があり、この本の言うとおりに読書をすれば読んでも忘れる(時間と金を無駄にする)ことが無くなり、読書の質が大幅に上がる。自己成長をさらに加速する読書術が身に付くこと請け合いだ。

 

まずはじめに読書がもたらす良い効果が羅列されていた。読書で効率のよい時間の使い方を学ぶことで普通の人より3倍のタスクこなすことができる、稼げるお金が多くなる、人間関係の良好化等。中でも特に目を引いたのが読書をすることでストレス解消効果が見込めるということ。しかし普段大きなストレスを抱えて生きている人(例えばうつ病を患っており診察に来た人)ほど本を読まないのだそうだ。精神科医の著者がうつ病患者にうつ病に関するQAを記載した冊子を渡しても読まないという。著者の目的は読書がもたらす効果を説き、その効果を最大限引き出す読書術を伝えて、読書習慣のある人々が少しでも増えて本から病気やストレスから逃れる方法を知ることがでできるようになってほしい、ということが著者の目的であると考える。

 

具体的に記憶に残す読書術であるが、読んでインプットしたことを1週間で3回アウトプットすると記憶に残ると著者は語る。その中で僕が実践しようと考えたのが、①読みながら自分にとって気づきとなった部分に蛍光ペンで線を引く(気づきとなる2~3か所に、あまりあちこちにひきすぎるとどこが大事な箇所かわからなくなる)、②友達に本の感想や内容を話す(この時本の一面だけ掬い取って話すのではなく、なるべく多面的に話す)、SNSで本の感想をシェアする(このシェアというところがポイント。人に見られるところに流すからあまり下手なことは書けないので、本の内容を理解しなければならない。そうやって読書に適度な緊張感をもたらせられる)、③感想を述べた数日後に本の書評やレビューを書いてみる(感想は本を読んだ直後の興奮などどうしても感情が入ってしまう。数日時間を置くことで客観的に冷静に論を述べることができる)、これで三回のアウトプットである。

 

以上は記憶に残す方法であるが、以下は読書の質を高める方法について述べてある。脳は優しすぎず難しすぎず適度な難易度の課題に取り組むときに活性化するという(長期記憶として貯蔵される際に利用される化学物質、ドーパミンが放出される)。そのためスキマ時間(電車に乗っている時など)を利用して、15分という制限時間をつけて読書をするといいらしい。15分間の間に第一章を読もうという風に制限時間と目標を設定することでただ漫然と読むよりも適度な難易度と緊張感がプラスされる。ドーパミンの放出を促していくというわけだ。15分という時間制限については、人間の脳が最も集中を持続させられる時間が15分であるということ、やり始めの5分が集中力が高まる(初頭努力)こと、終わりの5分で集中力が高まる(終末努力)ことを利用して学習効率を高める狙いがある。

また、寝る前のスキマ時間を使って読書をした後に就寝するという方法も提示されていた。これは寝る前に入れた情報は寝ている時に整理されるので、著者も寝る前に執筆中の本の構想などをまとめたノートを見て寝ると、起きた時に解決策が浮かんでくることがあるという。僕も脚本を書くときはそうしてみようかなと思う。

 

ここで僕が述べたことは「読んだら忘れない読書術」の本の一部でしかなく、もっともっと多くの科学的根拠が述べられていたし、ほかにも失敗しない本の選び方などが記載されていた。読書は量より質、と著者はいう。質の高い読書をすることで自己成長を促し、収入を増やしたり時間を手にしたりできる。ネット上に転がっている情報は無料で手に入るがそれは所詮情報であり、その上の知識には結びついていない。先人たちの知識の結晶である本を利用しない手はない。お金を出して買った知識は必ず自分のためになる。この本に書いてあることを実践して、演劇や仕事、勉強に生かしていきたいと思う。

箱崎水族館という喫茶店の一角を使ったお芝居。
ワンドリンク制で、受付でドリンクを一つオーダーする。折角の喫茶店やし、オシャレにコーヒーでも飲んでみようかなっち思ったけど、ニガいのが好きじゃないので、オレンジジュースを注文。
年はとるのに味覚は子どもやなぁ…

そんな喫茶店で見てきたお芝居は、砂漠の黒ネコ企画さんの「Good bye,Robert」
劇評というほど大層なものではないですが、見た感想をつらつらと書きますね。

舞台は1954年のニューヨークの喫茶店。
ある女性記者が取材のために喫茶店を訪れる。
この記者役の女優さんが板付。客入れの時からテーブルについて取材の準備らしきことをしていて、ついつい目が行った笑
そこにやってくる1人の男。彼は芸術を求める写真家。
真実を求める記者と芸術を求める写真家が取材を通して繋がってゆく会話劇。

観劇後の感想は、とにかく「美しい」の一言。
脚本の完成度が高え。台詞が生きてて、リアリティを帯びた会話になっていた。もちろんリアリティのある演技をした役者の力もあるんやろうけど、とにかく台詞の書き方が上手い。
情報量が多いのに説明的な感じがせん。客に伝えたい情報を自然な形で客に提示する。この辺は脚本を何本も書いちょん人でも中々難しいとこやと思うけど、それを上手にやり遂げちょった。平田オリザの言う遠いイメージから台詞を書くということの意味がなんとなくわかる。
台詞が上手いのに加えて演出も巧み。この芝居は2人の対話が淡々と進んでいく感じやけど、だらだらと対話を見せるんじゃなくて、客の想像力を広げる工夫が随所に見られた。
例えば後半の黒板のシーン。ナンシーが板書しながら話すのに、ロバートと客はリアルタイムで見ている。黒板の図解に、ナンシーが言わんとしていること。情報を紡ごうと観客は想像を膨らませる。そして真相へと誘導されてゆく、この辺がめちゃめちゃうめぇ。
間、立ち位置、表情、動き、全てが客の想像力をフル出動させるために計算されつくされちょんように見えた。やから淡々進む会話やのに飽きがこない。見てるこっちは想像力でグルグルやから。静かな演劇ってこげなのを言うんかな。
役者さんはいい具合にリラックスしててイイなぁ。俺は力の入った役者や、説明的な演技が嫌い。この役者さんはそれがない。自然な演技、ステキ。

淡々とした対話の中に客を引き込むのが上手で感銘を受けたけど、少しクドイというか長いというか、もっとコンパクトにできんかったん?てトコもちらほら。
前半の会話とかはもっと縮めてよかったんやないかな。やっぱり長いからどうしても飽きというかダレてくる。しかもダレた頃に「ベンみたいに」みたいな面白い台詞が入るから、折角の笑いどころを潰した感じがした。俺は笑ったけど。
まぁでも笑わせ方も好き。単発ギャグじゃなくて、構造的な笑い。この脚本を書いた人は相当頭がいいんやろうなー。

そんなこんなで、もっと縮めても良かった感はあれども、かなり丁寧に作り込まれたいい作品だと思った。俺は喜劇にしか興味を示さない(ことはねぇけど)男やからこういう淡々とした会話劇みたいのは避けちょったんやけど、いやーイイね、こういうのも。でもこういうのって上手い人がやるから面白いんであって、下手な奴がやってもただの淡々としたつまらん劇になるわなー