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        親鸞に学ぶ~日々を生きるために
        『和讃点描(わさんてんびょう)』
           VOL.30 2012.7.20
       http://www.mag2.com/m/0000125708.html
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 このメールマガジンは、真宗大谷派(本山・東本願寺)末寺(九
 州)の住職が親鸞聖人の『高僧和讃』をひもといた私解を綴ってい
 ます。1994年頃の著書からです。南岳により描かれた内容に、
 木蓮(もくれん)が前書きを加えて配信しています。
 本来、親鸞聖人の『高僧和讃』をひもとくことで、宗教的読み物と
 しての理解や仏教への理解を深めたり、日々のヒントとしていただ
 いたりすることができるのではと考えています。
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こんにちは。木蓮です。
お久しぶりです。

最近書道を習っていて、この「木蓮」という字を書きます。
思いのほか、バランスがむずかしい。

「木」は、縦の線をまっすぐ力強く書くことに難しさがあります。
ぶれていると、なかなか思うようになりません。

「蓮」は画数が多く、苦戦します。

蓮という花の極楽浄土を思わせる
豊かな美しさを表現するには
まだまだ遠い道のりです。

何事も、一歩からですね。
始めなければ、始まらない。

ようやく、ここからと思うことばかりです。

さて、今回初めて「ルビ」を別にしてみました。
メルマガにルビをふることができないために
(カッコ)ではさんでいたのですが
難解な字をスラスラと読めるかたには
かえって邪魔だろうと思ってのことです。

メルマガには、「対象」というものがあります。
お読みくださっている方々は
もしかしたらすっと読める方のほうが多いかもしれません。

文章を分かりやすくとは、
何も小中学生が分かりやすくという意味だけでないと
今さら気づいた次第です。

『和讃点描』の手元の原稿も本号を含めず、残り3回です。
遅々とした歩みでも最後までお届けできそうなことに
身勝手な感慨を覚えているところです。
あと少し、お付き合いください。
(木蓮)

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◇和讃29

無碍光の利益より
威徳広大の信を得て
かならず煩悩のこおりとけ
すなわち菩薩のみずとなる

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに得おおし

<よみ>

むげこうのりやくより
いとくこうだいのしんをえて
かならずぼんのうのこおりとけ
すなわちぼさつのみずとなる

ざいしょうくどくのていとなる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきにとくおおし


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◇大意

無碍の光明の利益をこうむって、すぐれて広大な
信心を得るので、必ず煩悩の水がとけて
菩提(さとり)の水となるのである。

罪の障りそのままが功徳の本体となるのも
ちょうど氷と水の間柄と同じように
氷が多いほど水が多くなる道理で
さわりが多いほど功徳が多くなるのである。

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◇私解

この二首は前首の無碍光の利益をもうひとつ聞いて
煩悩が障害とならないこと、さらに罪が障害になら
ないこと、というより、むしろ功徳そのものになる
ことへの感動をうたったものである。

いわば、誰しも思い及ばない破天荒の転換が、我が
身に起こる喜びであろう。
こうは書いても、実は今日の私にはそれほどの感動が
わいてこない。

考えてみると、仏法の歴史はどうしたら煩悩を断ち
きって菩提が得られるのかと終始してきた歴史だと
いえる。

それなのに、煩悩を断ぜずしてどうして仏法と言え
るのかという問題がある。
この問題を宗祖ほど真剣に我が身に問うということ
がないからだろう。

少し長くなるがが、宗祖が『真仏土巻』に「『涅槃』
の名義を明らかにされる一段に『涅槃経』を引いて
おられるところがある。

そのなかに「いかんが一名に無量の名を説くや。な
お『涅槃』のごとし」ど出して次にいろいろな名が
あげられる。
その後の段に「また一義に無量の名を説くことあり。
いわゆる陰(おん)のごとし」という文が出てくる。

「陰」というのはいわゆる「五蘊(ごうん)」のこ
とで人間をつくりあげている五つの要素のこと。
これが「煩悩」であるとともに「解脱」であるとい
うのである。

つまり先の問題に対する宗祖のお答えであると言え
る。人間そのものが煩悩であるから、それを断ちき
ったら「菩提」は成り立たないという理論である。

理論というと問題かもしれないが、人間は煩悩の身
なるがゆえに解脱の身となることができる。
煩悩なくして解脱はあり得ないのである。ところが
私は煩悩を断ちきれないのに断ちきろうという思い
で生きている。

身は断ちきれないで正直に生きているのに、思いだ
けが一人歩きしているのである。
何かそういうところに自損損他して毎日つまづいて
いるのが私の実態である。
つまずきは現実の反応であるから、生きている証拠
なのである。
つまずいたから駄目なのではなく、つまずいたから
吾に帰ることができる。愚痴る必要のないのに愚痴
っているのである。聞法というのは、そんな自分に
出会う喜びである。

その喜びがすなわち「能発一念喜愛心 不断煩悩得
涅槃(のほついちねんきあいしん ふだんんぼんの
うとくねはん)」(正信偈)の「よく一念喜愛の心
を発すれば」ではなかろうか。
一念の信心によって煩悩を断たずして涅槃の喜びを
得るのである。何もはじめから煩悩に腰をおろして
太平楽を決め込むのではなく、そこに「無碍光の利
益より威徳広大の信を得て」とあるように、信心を
賜る人生の喜びなのである。

私は聖人の「無碍」という言葉に触れると、「よほ
ど煩悩と真向きになられた人」だと感じる。煩悩に
立つ限り人生は「有碍」である。「有碍の人生を通
していよいよ『無碍』に帰していかれたのが聖人の
歩みではなかったろうか」などと思う。

曇鸞大師の「論註」を解釈しておられるのでなく、
「無碍」光に照破された自分の喜びを「論註」に
託してのべられたのがこれらの和讃でなかろうか。
(南岳)


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★お知らせ★
昨年、出版した著書があります。南岳の1991年から2005年までの
短歌を収めた歌集です。
もしご関心がおありでしたら、以下にてご購入可能です。

『功徳草~くどくそう』(三輪昭園著 1500円)
http://www.mybookle.com/indiv/bookle/1775

【著者プロフィール】
1927年(昭和2年)、真宗大谷派光明寺に生まれる。
1954年、27歳で第2世を継ぎ、住職となる。
僧職のかたわら、ハンセン療園・鹿屋市星塚敬愛園へ法話や歌会に赴き、
入園者と文化的な交流を深めた。
また、欧国や韓国を外遊し、日本の外から見て戦争を詠んだ歌も多数ある。
社会的事象に取材したものから、家庭における日常的な風景まで、題材は幅広い。
東本願寺機関誌『同朋(どうぼう)』の歌壇選者を18年間務め、今に至る。
著書『寒桜』85歳。
東本願寺定期購読誌『同朋』>http://tinyurl.com/ybh45ro

地元の新聞でも取り上げてくださったようです。
http://ameblo.jp/hasso365/image-10477167541-10427682385.html

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あるため、その内容には時差があります。筆者の周りに起きた事柄や一般社
会情勢などもその当時のことと、ご理解ください。なお、最初のごあいさ
つは、木蓮による「いま」のリアルタイムな気持ちです。
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