←クリックをお願いします。現代では「我慢」というのは「堪え忍ぶ」「じっと辛抱する」という意味で使われ、美徳のように考えられています。
しかし、仏教語でいう「我慢」は、「我」への「慢心」を示す言葉です。自分の力を過信し、他者に対して奢り高ぶる様子で、どちらかと言えば、悪い心の状態です。
いい意味に転じたのは、ひとえに「我を張る」強情な様子が、次第に堪え忍ぶような意味に変化していったからでしょう。
そもそも「我」へのとらわれは、インドの古代哲学によるものです。「我」は命であり、魂であるとされました。
ところが、仏教では、全ての存在は「無我」であるとしました。「我」があると認めること自体が、「我執」であると考えたのです。
現代語の「我慢」が良くないという意味ではありませんが、本来の意味である「我慢」という見方で、日頃の自分を捉え直すことは、やはり大切。
「私が、私が」と何かにつけ、自己を主張してばかりはいないか。
特に、現代のようにインターネットが発達した社会では、あらゆる疑問がパソコンのキーを叩くことで解決できます。技術の発達で地球の裏側の情報まで知ることができ、まるで自分が全能の智を得たかのような錯覚に陥ることさえあります。
しかし、人生にとって大事なことは、案外と身近なところにあるものです。
朝、起きて空を見上げる。毎朝新しく降りてくる朝露。濡れた葉を照らす太陽の恵み。新聞を届けてくれた配達人さん
自然の命をいただいて生きることの、何と得がたいことでしょうか。「我」から離れ、改めて、その縁を思うとき、少しは「我慢」を手放すことができるのかもしれませんね。
メールマガジン『和讃点描』では、木蓮の父・南岳(僧侶)の著書「和讃素描」から1章ずつ配信しています。専門的な内容がほとんどですが、もしご関心がおありの方はどうぞ。
詳細はこちらです。→ http://www.mag2.com/m/0000125708.html