
秋葉原の事件。
重過ぎる。悲し過ぎる。
身を引き裂かれるような、つらさです。
なぜ、なぜ、なぜ?
メディアが伝える情報が断片的に入ってきます。
なぜ秋葉原だったのか。
彼女がいなかった。
親に別れさせられたようだ。
あれだけのログを事前に察知できないのか?
けれど、読めば読むほど、問題はそこにはない気がします。
断片的で表層的な情報の
もっと深いところをさぐればさぐるほど
現代日本が持つ深い闇にどうしても行き着いてしまうのです。
歩行者天国を止めても、技術が進んでログを察知できても
根本的な解決には至らないでしょう。
問題の根っこがそこではないからです。
もちろんわずかな手だてとはなるでしょうが、
もっと大前提のところで、今の日本が抱える問題を
見て行く必要を感じずにはいられません。
仕事の軸と人生の軸は、私にとっていつも同じ座標の上にあります。
仕事と、生きることは私にとって切り離すことができません。
仕事をしている自分は、同時に生きている自分で
同一のものとして、意識し合い、関連しあっているからです。
だからこそ、「価値」ということを考えるとき
「顧客価値」「企業価値」を考えながら
一方で「社会の価値」「コミュニティの価値」さまざまな「価値」を考えるのです。
金銭で評価できない価値がたくさんあるはず。
それが、あまりにも置き去りにされてしまった現代。
20世紀に大事な忘れ物をしてしまった日本。
これまで凶悪な事件を起こした犯人は皆一様に
涙が干からびた、どこか別の世界の人のようでした。
相容れない存在のように思えました。
以前読んだ『「少年A』この子を生んで…』が頭に浮かびました。
そこに書かれていたのは驚くほど普通の家庭です。
文面から判断する限り
教育ママでもなく、どこにでもいる、子煩悩ないい両親なのです。
しかし、対する少年の心はあまりに不毛で、砂漠のようでした。
共感とはとても遠いところにありました。
普通の家庭と、その少年像とがあまりにかけ離れていたのです。
しかし今度の秋葉原の事件はどうでしょう。
「とめてほしかった」
言葉も涙も嘘ではないと思えてなりませんでした。
犯人を擁護する気は毛頭ありません。
絶対に許せません。
何が何でもやってはいけないことです。
私がもし被害者の親であれば……想像もできないつらさです。
会ったこともない方々の深い悲しみが押し寄せてきます。
被害者とそのご遺族に生涯をかけて償うことはもちろんでしょう。
いえ、今の法律的では、それさえもかなわないかもしれませんね。
しかし、頭を下げ続けるお父さんと
地面に座り込んで放心するお母さんの姿を見て思ったのです。
「ご両親だけの責任だろうか」
「彼だけの問題だろうか」と。
この青年に関わってきた、大きな意味での社会があります。
バイト先の方とか、友人という意味ではありません。
「すべての人」が隣り合わせなのです。
同じように孤独を抱える人達が、きっとまだたくさんいます。
私たちには何が出来るのでしょうか。
今の日本で将来を不安に思わない人などいないでしょう。
孤独、焦燥感、怒りを持て余した人々の感情の矛先が
社会に向わず、自分に向う場合、消極的な自己完結を強いようとします。
漠然とした不安をかかえながら、今の自分は、自分の過去が作ったもので
自分が引き寄せたものだから仕方がない。
そんな風に多くをあきらめ、これでいいと自己完結を強いながら過ごしています。
自分のなかで折り合いをつける大切さ。
それはとても大切なことです。
積極的な自己完結ができる人は
何とかそこから抜け出せるのですから。
ただ、私が不安に思うのは、
「全ての因果は自分にある」と消極的な自己完結を求め
ついには折り合いをつけられなくなる人が
これから増えてくるのではないかということです。
人と人の関わりが希薄になり、地域コミュニティが衰退し
社会の枠組みが弱者の排除を強化するなら
同じ事件がまた起こりうる。
それが恐ろしく、悲しいのです。
評価社会は、自己完結を強いる性質があります。
「これでいい。自分が選んだことだから仕方がない。この程度の能力だから仕方がない」
それでもまだ日々の中に希望を見いだせる人はいい。
けれど、そうでない人もいるのです。
だから人は手を差し伸べ合ってきたはずなのです。
誰もが生きる価値があるはずです。
そして生きる価値のある社会でなくてはと思います。
貧困と飢えに苦しむ人々が世界にはまだまだいます。
大きな枠組みで言えば、豊かな社会であるはずの日本で
とるにたらない小さな格差。
しかしひとりひとりにとっては、時に人生を悲惨にねじ曲げるほどの重大な格差。
簡単に答えが出ようもありませんが、ただ書くことだけができるなら伝えたい。
生きにくさを感じている人がいたら、
「あなただけではない」ということを。
読んでいただき、ありがとうございました。