「高橋くんの働き方は、本当に『ノマド』だねえ」
社内システムの大規模移行作業が終わった直後。
疲れ切った表情でコーヒーをすする課長が、ポツリと呟いた。
ノマド(Nomad)。
高橋の頭の中に、果てしない砂漠を疾走するラクダと、自由を愛する遊牧民の姿が鮮やかに浮かび上がった。
定住地に縛られず、ノートPC一つで世界中を旅しながらスマートに成果を上げる現代のカリスマ。
組織の枠組みを超越した、究極の自由人。
つまり自分は今、場所に囚われないスタイリッシュなワークスタイルを確立した「次世代の働き手」として賞賛されたのだ。
「……恐縮です。ひとつの場所に停滞することは、自分の魂が許しませんので」
高橋はノートPCを小脇に抱え、さも風の旅人のような眼差しで遠くを見つめた。課長は「あ、うん……まあ、席にはいてほしいんだけどね」と力なく呟いた。
その日の夜、高橋はいつもの居酒屋で、同期の佐藤を前に熱弁を振るった。
「佐藤、俺の時代が来た。ついに『ノマド』として認められたよ」
「は? お前、オフィス勤務の平社員だろ。どこがノマドなんだよ」
「浅いな。ノマドとは場所の問題ではない、生き方の美学だ。オフィスという狭隘な集落に固執せず、常に最適な環境を求めて移動し続ける。課長も俺のその『枠にとらわれない流浪の精神』を見抜いたんだ」
「……高橋、お前それ絶対に――」
「見ていろ。これからの俺は、ノマドとして社内を縦横無尽に駆け巡る!」
高橋は運ばれてきた焼き鳥の串をダイナミックにほおばり、自由を謳歌する男の笑みを浮かべた。
翌日から、高橋の「ノマド化」は苛烈を極めた。
自分のデスクには一切荷物を置かず、朝一番で会議室の隅、打ち合わせスペース、さらにはオフィスビルの階段の踊り場や1階のカフェテラスへとPCを持って移動。
打ち合わせの連絡が入ると「現在の拠点は3階のフリースペースです。風の向くままにお越しください」と返信した。
周囲の社員たちは
「高橋、また捜索願が出てるぞ」
「あいつ今日どこで仕事してんの?」と蜂の巣をつついたような騒ぎになったが、高橋はそれすら「定住者たちが自由人に抱く羨望と戸惑い」と好意的に解釈していた。
しかし、その「社内をあちこち移動し続けるスタイル」が思わぬ奇跡を生む。
あちこちの部署のフリースペースを転々としていたことで、営業、開発、デザイン、法務といった普段は交流のない部署の雑談やトラブルをいち早く察知。
部署間の連携不足で凍結しかけていた大型クロスセル案件の「橋渡し役」を電撃的に立ち回り、見事に社内最大のシナジー契約を成立させてしまったのだ。
一週間後。
社内表彰の準備が進む中、給湯室でPCを膝に載せてメールを打っていた高橋に、佐藤が呆れ返った顔で近づいてきた。
「なあ高橋……全社プロジェクトをまとめたのは凄まじい実績だけどさ。お前『ノマド』って言われた日のこと、本当はどういう状況だったか覚えてるか?」
「当たり前だろ。風のように自由に働く、時代の先駆者への称賛だ」
「違うよ。あの日の朝、お前『自分のデスクの鍵を忘れて引き出しが開かない』わ、『Wi-Fiが繋がらない』わで、ただPC持って社内を半泣きでウロウロ彷徨ってただけだろ。課長が言ったのは単に『席に落ち着かない根無し草』っていう皮肉だよ」
高橋の手の中で、エンターキーを押そうとしていた指がピタリと止まった。
「……え?」
「遊牧民でもノマドワーカーでもない、ただの『自席に入れない社内難民』だよ」
社内難民。
自由な旅人でも、スマートなワーカーでもなく、ただ鍵を忘れてオフィスを彷徨っていた男。
高橋の頭の中で広がっていた果てしないサハラ砂漠が、一瞬で無機質なオフィスの廊下に書き換わった。
顔から火が出るほどの恥ずかしさと冷や汗が全身を駆け抜ける。
「……俺はここ一週間、ただの『鍵を忘れて彷徨う不審者』として風を切っていたのか……?」
「そうだよ。誰も突っ込めない顔で階段の踊り場に座ってたからな」
高橋が膝から崩れ落ちそうになったその時、給湯室のドアが開いて課長が興奮気味に入ってきた。
「高橋くん! 役員会で君の『部署横断の機動力』が大絶賛されたよ! 自分の席に閉じこもらず、社内全体をフィールドとして駆け巡るあのフットワーク……まさに我が社に必要な『最強の社内ノマド』だ! これからも自由に社内を旅してくれ!」
高橋はゆっくりと立ち上がった。
ノートPCをしっかりと抱え直し、深く息を吐き出す。
鍵を忘れた怪我の功名だろうが何だろうが、壁を壊して人と人をつなぎ、成果を出せばそれこそが真の「ノマド」なのだ。
「……お任せください、課長」
高橋の瞳に、再び地平線を見つめるような気高き旅人の光が宿った。
「自分はどこまでも、社内の垣根を越えて疾走するノマドであり続けます」
佐藤は深く肩を落とし、諦めの境地で天井を見上げた。
勘違いから始まった男の「社内流浪記」は、もはや組織の縦割り構造すらも爽やかに吹き飛ばしていた。