「スパイダー」






私はそのとき恋をしました。



それは3月も終わりのある朝のことでした。春特有の少し湿気のある生暖かい空気の中、新芽をつけた草花の枝葉の向こうにあなたの姿を発見することができました。深夜から降り続いた雨もようやく上がり、太陽の光は濡れた地面を暖め始めていました。雨を含んだ褐色の土からは僅かに蒸気が漏れ、そこには幻想的な空間が広がっていました。あなたがいなくなった今でも、あの日のことはずっと私の人生の中で最も輝かしく、そしていつまでも色褪せない美しい記憶として心に焼き付いています。きっと運命的に私の心のベクトルは、磁石が世界中の何処にあってもいつも北を示すように、あなたの方角を向いていたのでしょう。あの特別な朝、あなたはその透き通るような体をまっすぐに伸ばし、太陽を見つめていました。太陽ではなく、木の上に何か見つけたのでしょうか。あるいはただ物思いにふけっていただけなのでしょうか。私のいる場所からは何をしているのかは判りませんでしたが、その日からあなたを眺め続けることが私の日課になりました。




来る日も来る日も私はあなたを見ていました。気の遠くなるほどの時間が過ぎてゆきました。あなたはきっと私には全く気付いていなかったでしょう。そしてあなたの身体が少しずつ大きくなっている事にも。雨粒にさえ押し潰されてしまいそうだったあなたの華奢な体はいつしか私と同じ位に成長し、そこにはある種の貫禄のようなものさえ感じることができました。太陽の光が反射したあなたの体は何にも変えがたいほど美しく、叶うならば今すぐその場所に下りて行き、私の気持ちを伝えたいとさえ思いました。しかしそうすることで全てが終わってしまうのを恐れたのです。なぜなら私の体は、薄汚く気味の悪い、決してあなたの前に出ることの許されない代物だったからです。




あなたを観察してどれくらいの月日が過ぎたでしょうか。その日、私はある異変に気が付きました。大きくなった体を持て余したのか、あなたはその日を境に動くことを止めてしまいました。私はその異変にひどく狼狽し、寝食を忘れてあなたの身を案じつづけました。しかし、雨が降ろうと雷鳴が轟こうとあなたはその場所から決して動こうとはしませんでした。そればかりか、しばらくするとあなたは分厚い殻に自らを閉じ込め、まるで私からその姿を隠すかのように外界との接触を断ってしまいました。あのあと、あなたは暗い殻の中で何を考えていたのでしょうか。日の光を拒絶した小宇宙は、あなたに何をもたらしたのでしょう。




時間が経つにつれ茶色く変色してゆく殻を見つめながら、私は中にいるあなたの事をずっと考えていました。あなたはなぜ突然孤独を選んだのでしょうか。私は身勝手にもあなたのことを理不尽だと恨みました。思えばあなたへの気持ちもある日突然沸き起こったものであり、理屈などというような整然たるものはなく、理不尽と呼ぶべきはむしろ私の方でした。しかし私は考えてしまっていたのです。いつかその殻を破って出てくるあなたを私は受け入れることができるだろうか。もしもあなたの姿が醜く変わってしまっていても、変わらずあなたを愛し続けることができるだろうか。憧れに似た形をしていた私の気持ちは次第にその形状を変えて増幅していきました。いっそその殻を私の力で引き裂き、あなたを連れ出したい。私の存在を伝えたい。そんな衝動が体の中でのたうちまわり、私の体を締め付けました。嗚呼、あなたほど罪な存在はあるだろうか。この魔物が私を完全に支配してしまう前に、どうかそこから出てきて私に顔を見せてください。そう願いながら、私は『その瞬間』を待ち続けました。




それは唐突にやってきました。数日間降り続いた雨が上がったある昼下がり、あなたはすっかり生まれ変わった姿で私の前に姿を見せました。かつての面影は消え失せ、純白の羽根を手に入れたあなたは、今まさに大空に向かってはばたこうとしていました。あなたはあの殻の中で見事に変身し、これまでの自分を脱ぎ捨てることに成功していたのです。どこまでも醜い私とは対照的でした。私は焦りました。今決心しなければ、あなたは何処か遠い所に行ってしまう。それは完全なるあなたとの離別を意味していました。その事実だけは受け入れるわけにはいかない・・・。私の中の魔物は、既に私の体を凌駕していました。





きっと神は私をお許しにならないでしょう。彼は何故、私にたった二枚の翼さえお与えにならなかったのでしょう・・・。




私はあなたと記憶の中で永久に結ばれること選択しました。あなたを心から愛していました。愛するがゆえにあなたを自分の中に取り込んだのです。あなたの体に絡み付いて離れないそれは、決して罠などではなく、あなたと二人で夜空を眺めることを願って作り上げた絨毯であったはずなのに・・・。罠にかかったあなたはとても切ない目で私を見ていました。悲しいことに、私の存在はこのとき初めてあなたに認められたのです。




さあ、今こそあなたを私という殻の中に包み込みましょう。

これでやっとあなとの距離がゼロになります。

私この大罪を生涯背負ってあなたとともに生きていくことになるでしょう。



自由を奪われ、死を目前にしたあなたに私は伝えました。




「こうすることが、私があなたに捧げることのできる精一杯の愛なのです。

ただの美しい思い出に変わってしまう前に・・・。」