「季節の部屋」
ここは冬の部屋。僕らはいつからここにいるんだっけ。コーヒーがすっかり冷めてしまったね。あれからどれくらいの時間がたったのか、考えることさえ面倒だよ。ねえ。こうやってずっと向かい合っているのに、変だとは思わないかい?
実は、僕は君のことを少しずつ忘れ始めているんだよ。
君の顔の輪郭、手のひらのシワ、首筋のホクロ、僕があげた指輪・・・。全てがすっかりぼやけてしまっている。よくできたデッサン、と言えば聞こえがいいだろうがね。しかしね、これからますます余計な線が増えていき、やがては落書きの様になってしまうんだよ。そして目が消え、鼻が消え、最後には何もなくなってしまうんだ。もし人間がもう少し無機質で味気ないものであったなら、これで僕と君を結び付けている最後のコミュニケーションが途切れてしまうことになるね。しかし、幸い僕らは視覚を絶たれても互いに相手の存在を何とか感じることが出来る。だからといって、このまま君の姿がだんだん見えなくなってゆくのは少々切ないがね。
嗚呼、僕がこのタバコを吸い終える頃には、君の顔も幾分か今よりは煩雑なデッサンになっているだろうね。いずれにせよ、この現実を僕らは受け入れなくてはならない。何故かって?ここが冬の部屋だからさ。思い出してごらん。僕らはずいぶん前に秋の部屋を飛び出してしまっただろう?そしてこの冬の部屋にやって来た。まあいいさ。誰でもいずれはここに来るんだよ。そりゃあ、それぞれの部屋でどのくらいの時間を過ごすかは千差万別だけどね。ただし、皆に共通しているのは、夏をすっ飛ばして秋の部屋には行くことが出来ないし、いきなりこの冬の部屋に来ることも出来ないってこと。しかも、たいていの人はこの部屋に来る前に春の部屋に戻ってしまうんだ。冬の部屋ってあまり評判が良くないんだろうね。
ほら、この部屋にはお客があまりいないだろう?
春の部屋に戻るときは必ず一人でなきゃあならない。
これも季節の部屋を支配するひとつのルールだ。そんなルール誰が決めたのかって?それは僕にもわからない。どうやら、季節の部屋には何か強力なベクトルが存在していて、僕らが共有する磁石はとても強い強制力で季節の流れに準じているようだね。でも、こんなルール別に破ったっていいのさ。ただ、皆にそれをやってのける勇気がないだけなんだ。
あのね、さっきここのマスターが教えてくれたよ。冬の部屋に来ると、注文した飲み物に不思議なクスリが入っていて、それを飲むと一緒に来た相手の事をどんどん忘れてゆくんだ。でも僕はまだ少ししか口にしていないから、君の事をしっかり思い出せるよ。おいおい、君はもう半分くらい飲んでしまったのか。さっきから僕の方を不思議そうな顔で見ているね。と言っても、もうほとんど君が何処を見ているのかさえ僕にはよく見えないんだけどね。これじゃあ不公平だ。僕ももう一口だけ飲むことにしよう。
臆病だな、僕は・・・。
そうだ、夏の部屋で君は何か言いたそうだったけど、僕が自分の話に夢中でさえぎってしまったことがあったね。あの時、君は何を言おうとしたの?僕は一生懸命になると周りが見えなくなってしまうことがよくあるんだ。あの時、夏の部屋で僕はとても興奮していた。オープンテラスから見える海はガラスのように透き通った青で、空には雲ひとつなく、その完璧な美しさに僕はしばし心を奪われていたんだよ。
しかし、僕らがいるこの『季節の部屋』はいわば虚構の世界、そこから見える景色は心を映し出す鏡なんだ。もしあの時、君が外の景色のことを話そうとしていたのなら、残念ながらそれは僕には見ることが出来ない、君だけのものだったはずだ。だからこそ、自分の目に映っているものを手を尽くして相手に伝えなければならない。同じ景色を二人で見ることが出来るまでその作業は繰り返される。・・・そうやって季節は過ぎ去ってゆくのさ。外の景色だけじゃない。部屋の存在そのものが僕らの心情の投影なんだ。
寂しい話だけど、僕らはただの一度も同じ景色を見ることなく冬を迎えてしまったね。残念だな。僕はあの空と海を君に見せたかったのに。まあ、今さら言っても仕方ないか。・・・つまりね、
季節の部屋は僕らの心の中に存在するんだよ。
君が僕のことを完全に忘れてしまう前に、この部屋のことをもう少し話しておかなくちゃいけないね。
冬の部屋には誰しもが到達できるわけじゃない。この部屋は夏の部屋のように情熱的ではないし、秋の部屋のように温かい安心感に包まれることもない。この部屋に来た人間は皆考えるのさ。幸福とは何か?人から愛されるということはどういうことなのか?何故自分達は冬の部屋まで来てしまったのか?徐々に薄れてゆく相手をじっと見つめながら、答えの出ない永遠の疑問にもがき苦しむんだ。
そして誰もがこう思い嘆く。なぜあの温かい部屋にもう少し居られなかったのか。なぜあの時、心を開放して相手にぶつけることが出来なかったのか。僕も最初はそう考えた。しかし今は違う。いま僕にはこの部屋を大きく包み込む柔らかな優しさを感じ取ることが出来るよ。冬は決して終わりの季節ではない。この部屋には必ずもうひとつの顔が存在する。そう信じたいんだ。
そこで僕はひとつの仮説をたてた。季節の部屋がもし本当の意味で『季節』の性質を備えているならば、それは現実のそれのようにループしているはずだとね。季節は決して一度限りではない。悠久の時を越えて繰り返されるものだ。冬はひとつの流れの終わりだけれど、それは同時に、次につながる始まりの季節でもあるんだ。ならば、この部屋の次にはきっとまた新たなる春の部屋が存在するはずだ。さあ、勇気を出してこの部屋を出よう。そして僕らはまた新しい春を迎えることが出来るんだ・・・。
そうだろう?
僕は、とうの昔に彼女の姿がそこにないことにも気付かず、彼女の座っていた席に残るかすかな残像、あるいは残り香とでもいうべきモノに向かってそのあともずっと語りつづけていた・・・。