人間は細かく分割していくと、そこら辺に転がっている石ころと同じ「原子」から出来ている。さらに、人間を構成する物質のほぼ大半を占めるのは水分である。イメージしにくいかもしれないが、人間は水分の塊なのである。
宇宙カレンダーをご存知だろうか。宇宙の開闢“ビッグバン”を1月1日として、現在のこの瞬間までをちょうど1年に換算したカレンダーである。すると、人間がサルから進化し、二足歩行を始めたのは12月31日の午後11時30分以降の出来事にすぎない。そう考えると、我々人間の寿命はせいぜい100年、宇宙という大きな生き物がたった1回まばたきする間すら生きている事が出来ないのだ。では、我々は宇宙のまばたきにも満たない時間を与えられて、一体何をすれば良いのか。
個々の生物に与えられた使命は子孫を残す事だが、子孫を残す事が何につながるのかを考える事はないだろうか。人間が勝手に作り出した、「生物」というカテゴリー。石ころが死んでいて、自分が生きているという証拠は何処にあるのか。宇宙空間に存在する元素から構成されているという観点では、生物という枠組みはそれ自体が虚しい。意思をもつものが生物だと言う人もいるが、意思というものは、化学的な表現を借りれば、化学反応の複雑な兼ね合いの産物である。あなたが花を見て美しいと感じるのも、その際に分泌される脳内の快楽物質の影響なのだ。すると、例えば我々が普段“モノ”として認識している磁石はどうだろうか。“彼ら”はN極とS極を有し、お互い異なる極同士をひきつけ合う。これは自分の中に存在するNという個性を、正反対のSという個性に近づけたい、という最もシンプルな意思なのではないか。
人間も所詮は宇宙に散らばるチリと同じ。大それた事を考えずに日々を思うままに楽しく生きれば良いのか。快楽主義や現実逃避だと言われればそれまでだ。確かに大それた事を考えた結果、我々は「文明」というものを手に入れることができた。しかしそう思うのも我々のエゴでしかない。我は何かを破壊し、創造することによって進化してきたが、どれだけ発展を謳歌しようとも、進化というものは、初めから破滅の方向にベクトルが向いている、この否定しがたい現実があるのだ。宇宙のエントロピーはただひたすらに「熱的死」に向かって進行している。だから、とにかく前へ前へと、いたずらに滅びる時期を早める必要もないのである。